認識のズレ

  • 2008/10/25(土) 22:46:05

…先週から何校か、秋の学校公開を見てきました。


学校公開って、
・自分が関わっていた(いる)ケースが、
 実際のところ現場でどの程度の適応を示しているか把握する
 (個人の能力/傾向→適応に関するデータを収集する)
・固有の学校の「雰囲気」を把握する
・情報収集をする
 等々の「有意義な活動」ができる場面ではあるし、
昨年までの私としてはそれ以上に!
職場にこもっているよりは外出したい(できれば一人で)!
ってな動機に適合した有難いイベントだったのですが..

一方で学校からすれば、
保護者でもなければ学校関係者でもない!私は、
常に(学校としても子どもからしても)「異物」なわけで、
大体が平日の昼間に30代の男性はそんなに学校内をウロウロしないものなので(笑)
なんとなーくいろんなひとに怪訝な顔をされる..
それを自覚しつつ、基本的に空気のように、じみーに振舞うことにしています。
知り合いが居ても先方が気づいてないときは避けるほどに
(先日某所で、大した理由もないのにとある方に気づかれぬよう学校中を逃げ回ってて、
そんな自分に気づき自分でも呆れた..)


さて、そんな中、某小学校で1年生相手に、
警備会社のヒトが安全講習を行っている様子を見ていたのですが..

…結構なんというか、参加している子どもたちの方は、
講師の方の期待に沿った返答をしなかったり、
また講師の方の説明がミスリード「される」(*するではない)
ことも結構あって、これは見ていてなかなか面白いなぁと思いました。
 講師の方は全く初心者ではないにせよ、
子どもにものを説明する方法論をきっちり持っているわけでは(多分)なく、
後ろで聞いている大人達には完璧に分かる言い回しで説明しつつ、
それが子どもには(偶に)「変な」理解をされたり、変な反応に繋がってしまったりする。

ここではおそらく、講師の方の把握する
子どもの理解力→これに合わせた物言い 
と、子どもの実際の理解力の間に少しだけ、乖離が生じているということなのでしょう。
(今回は「対象が1年生だった!」というのも大事かもしれない。
 個人的な印象としては、聞いていて、
 同じ言い回しでも3年生以上ならほぼミスリードが生じない!感じだったので)


…これに関連して。
先日あるケースから
「先生に指摘された、うちの子の苦手な/できない行動なのだが、
(子どもの属する)集団で見ていると、他の子も結構できていなかったりする」
というご指摘がありました。
なるほど、当然そういうことってあるんだろうなぁ、と。

 発達のアンバランスさと一口にいっても、それにはいろいろな水準があり、
とりわけ「障害」と付く水準となると、
個人の状態がその他の「発達的にノーマルな」
子たちと「明確に異なる」感覚→認識→理解→行動 が確認されるレベルだけど、
実際には両者の間の違いは、どこかで明確に線を引けるような違い!ではないのでして。
「ノーマルだ」とされた群でも、しばしば年齢にそぐわないミス
(情報の誤った理解や誤った認識に基づく誤った反応など)は犯すもので。
発達的にはノーマル範囲にある個人だとしても、
例えば周囲がうるさいとか、他に気をとられていて、
情報が適切に入力されていなければ、誤った反応は当然するわけで。
また病気や疲労なども人間の正常なパフォーマンスを阻害する。

 今回の様子なんかを見ると、
1年生っていうのは、学校という環境自体、
及びその学校特有の「文法」(ルールとかいいまわしとか)
に完全に適応しきっていないし、
それに加え、理解力においてもある程度それ以上の学年とは乖離しているような、
「場の適応の過渡期」にある子たちなのかなぁと思いました。
(同じことは、中学の1年生を見ても感じることがあるのですが..)
 その中では、教える方も、教わるほうも、
互いに相手の「文法」を把握する努力を、やや強くする必要があるのかもしれません。
 同時に予め「ズレがある」「こういう場面でズレ易い」
といった認識を大人の側が持っていれば、
そこで生じたズレに対応できる場面って、結構あるんじゃないかと思います。


…先のケースに対しては、
「お子さんが苦手としているスキルは、確かにある」
「そのスキルについて(発達的にノーマル範囲の)子でもできない/ミスをすることは、ままある」
「両者の違いは、前者は明確に教えなければスキルが入らない/
後者はミスを自分で理解して、周囲の反応から情報を得つつ自分で修正できる水準にある」
ではないかと述べました。
逆に言えば前者の状態にある子でも、周囲がそれと気づいて、きちんと教えて、
理解させることができれば、そこでの認識のズレは、小さいものになるのでは?


 療育の目標のひとつは、
「周囲の世界と特定の個人との間に存在する認識のズレを、可能な限り小さくすること」
なのかもしれません。

 私自身は「ひとって分かり合えないもの」だと常日ごろから思っていますが、
そう感じている限りは、
「もっと上手く理解させよう」
「もっと適切に理解したい」
と努力するものなのかな、と思っています。


ジャックランタン&フロスト

体育の日にちなんで

  • 2008/10/13(月) 23:29:59

…体育の日、ですね。

私は小学校に入ってからこっち!とにかく運動会が大嫌いでした。
基本的に運動全般が嫌いなのですけど、運動会は特に!
…イベントだし(笑)、踊りとか”統合系”の課題が多いし、
チームプレイも本気度=ミスのプレッシャーが高いし..
組体操とか、もう最悪でしたね(笑)
あー私の場合は「徒競争の銃声が嫌い!」とかはなかったようです。

もぉ毎年、体調不良とかで休みたい!一心だったのですが、
当時の私は異常に真面目だった(笑)ので、
仮病とか使えないし、ここぞとばかり体調も不良にならない..

…なのですが。


江國香織さんの小説「間宮兄弟」で、こんな件があります。

兄弟が夏休みになると行く祖母の家の近所の浜で、
そこら辺の子と相撲をとる羽目になる、それが小さい頃の兄弟にはとても嫌だった。
 大人になり、そこを歩いて過去を思い出す兄弟。兄が

「でもよかったじゃないか。俺たちはもう、相撲をとらなくていいんだ」

…私は結構感心しました。
勿論これは相撲だけのことを指している(笑)のではない、のです。


子どもの頃って、意外に大人よりも
「嫌だけどやらなければいけないもの/やらないと許されないもの」
が多かった気がします。
(私はとにかく筆頭に体育! 
 大学の一般教養で体育が必須なのを知ったときは愕然とした..)
それは勿論、子どもの多くが今後社会で何かをするに際し、
意味のあることであろうから!やらせていることなのだろうけど。
 実際にひとが選ぶ人生の道はまあひとつなわけだし、
そこでは学んだことの大半は、結構意味をもたなかったりもする。

実際大人になってみると、
勿論生きる上でイヤなことが皆無になることは決してないけど、
それが多種/多岐にわたるものってことはそんなになく、
(大体特定の人間関係か特定の仕事か、じゃないでしょうか?)
またそれに対処したり逃げたりそらしたりする方法論もそこそこあったりする。

「今は辛いことが結構あるかもしれなないけど、
 大人になったら「やらなくて済む」ことも一杯あるからね!」
 (*「大人になれば楽しいことが一杯ある」とは言っていない)

ってことは、
今難儀している子どもに対して言ってやりたいなと思っています。

…とりあえず私は、今後如何なることになろうとも、運動会のある会社で働くまい(笑)


一方子どもの頃の私は
「夏休みのない人生なんて考えられん!学校の先生になるしかない!」
と思い込んでいたものですが。
…意外と夏休みって、なくても生きていけるもんですねぇ..
(フランスとかイタリアとかのヒトは異論もあろうかと思いますが)

体育の日

勉強日

  • 2008/10/12(日) 23:04:29

1)午後から臨床心理士の研修で安田講堂へ。
 今回は国際シンポジウム
 「子どもの心のケアの現場で役立つ心理専門職とは」

「国際」なので英語講演もありで。
今回は(無料だったので)イヤホンで同時通訳を聞きながら臨んだのですが、
…両耳で同時に異なる言語聞かされる方が厳しい(笑)
演者もイギリスの方で、発音も聞きやすかったので5分で諦めて英語オンリーにしました。
 にしても同時通訳って、俄かには信じられないほど高度な言語能力を必要とする
仕事だと思います(特に記憶力と、要約=文章の重みづけと切り捨ての判断)。
正直その通訳自体聞きづらかったのだけど(笑)
なんというか、その方がそこで何をしているかは理解できるので、文句は言えません。


…まあシンポジウムってのはそういうものですが、
児童養護施設や病院・行政などいろいろな立場の方が心理職に求めるものについて、
特に今回はチームアプローチ/現場での連携についてを中心に述べる、と。

・個人的には某「大」先生から
「スクールカウンセラーの現場での評価は必ずしも芳しいものではない」
的な言説が出たり(*この場面でこの先生から出るとは思わなかった)、
某親の会の方からも「療育の現場でも、心理は(保護者から)不評だ」
など、臨床心理士の仕事に冷や水を浴びせる意見がソコソコ出て、
個人的には楽しく(笑) 聴くことができました。
「心理さんが心理さんの仕事だけをしようとしていると、大概の場合使えない」
なんて意見は、正に「ようやく出たか!」という感じすらします。

…臨床心理の仕事ってのはとにかく領域が広すぎる!
で、ある領域だけ必死こいて勉強したひとが、
(仕事をえり好みできないので)ワケワカな仕事に就いてしまい、
ほんとにワケワカで何勉強したらいいかすら分からず適切な指導者もいなくて、
いざ目の前の仕事に対応するのに自分の学んだ方法論だけを通そうとして!
結果としてケースに非常な迷惑をかける、という感じでしょうか..
これって同情すべき部分はあるけど、
ケースとしてそれやられて嬉しい筈もなし。

・療育(今回は療育がメインテーマじゃないけど、そこそこ扱われた)
に関していえば、「臨床心理士の研修」だと、
多分個人個人の経験や勉強量に個人差がありすぎて!
どの研修でも基礎的な定義やほんっとに基礎の対応法の話に終始してしまいがちです。
そうせざるを得ないのは分かるけど、
なもんで私は療育の研修は基本的に、別のとこで受けることにしています。
今回はその親の会の方の意見が聞けたので!当たりでしたけど。

・メインテーマは心理職の専門性の向上、なのだろうけど、
「心理の仕事が多様化する状況に際し、
 基礎をきちんと抑えつつ、柔軟性と創造性を備え、周囲との連携を密にし」
とは講師の皆さんおっしゃるのですが(笑)
 それをどうするかっていうような、「もっと具体的な話」の方が、
特に新人には大事なのでは?と思いながら聞いていました。
「連携をとる」って、
具体的にどういうときに、どこに対し、どういう行動をとればいいの?
また連携をとる中で生じやすい問題とか、
そういう話を、事例を交えつつやれば、面白いと思うのに..
 そう考えると、前の職場で虐待対応について勉強したり、
資料を作ったり、ケースに関わったりした経験は、
私には結構意味があったのだと思います。
(特にプロ向け「虐待対応マニュアル」作りの仕事は、意外に役立っている)
虐待対応はそれこそ、機関間の情報のやりとりや連携が非常に重視される場面だし、
そこで掛かっているのは子どもの命!なのだから、
連携だってよりシビアに遂行する必要がある、と。
 …別に専従でその仕事をしていたでもないのですが、
それらについて学んだことは、
結構今もムダになってないんだなと思った次第。
 詰まるところ私は今「連携をとらねばいけない!」
って状況が生じたら、どこから手をつければいいか、分かるわけだし。
(でも私は基本的に、連携って苦手だったりするんですけど..)
 
 …要するに養成課程と現場の双方が、
どれだけ新人さんに具体的で多岐に渡る研修を保証するか、
だと思うのですが、どこも人不足だから、
現場だってそうそうひとの面倒見られないし、
心理の場合フォローの効かない一人職場も多い。
ものすごい養成と訓練に時間のかかる専門職だからこそ!
(その仕事の成果が手間に見合うものであれば、周囲も納得するんでしょうけどねぇ..)
如何にそこに力を注ぐかが重要なのだと思います。


2)夜はNHKスペシャル「病の起源:読字障害」を見ました。

*…読字障害は「病」でしょうか?
病気ってのは固有の生体の中で通常時ではない「異常な」状態が生じている状態で、
基本的に永続的なものでなく治癒/治療することが可能
(少なくとも何かの方策を講じることができる)な状態を指す
と思うので..
読字障害は、そういう意味で病というより「適応の問題」なのでは?

…見たひとがどれだけいるか分かりませんが、良い番組でした。
 番組から得られる情報を自分なりにまとめると、

?読字障害の定義/人口における出現率など
?読字障害が生じる理由:
 大脳左半球の第39と40野が的確に機能しない。
 39・40野は視覚情報を聴覚情報に置き換える機能を果たすが、
 本来はその他各種の感覚情報の異なるモード(様相)から得た情報を統合する
 =固有の情報に異なる意味づけをする 機能に関わる部位らしい。
?読字障害のひとは、往々にして視覚処理が優れている。
 39野/40野を始めとした大脳左半球が上手く使えない分、
 どうやら右半球を使用して処理を行っているらしい。
?人間が文字を読むという行動を始めたのはたかだか5000年前。
 脳は元来文字を読む機能を備えるよう進化したのではなく
 (5000年くらいじゃそんな進化できない)、
 脳にもとから備わる(進化してきた)特定の領域を使って、
 読むという活動を行っているに過ぎない
 =読むという行為自体がある程度脳にとって「不自然な行為」で、
 それは基本的に、読むひとにストレスを強いている
 (一方で読むことにより得られる恩恵は計り知れない..)
?読字障害のひとでも適切な訓練を行うことで、
 読むことのストレスを減らしていくことは可能なようである


??:dyslexia(読字障害)について、
 最初に勉強したのはざっと15年前でしたが、
 その頃には勿論!原因の追究はここまでの精度で行われてはいなかった。
 なもんで実に刺激的でした。
 特に「得た視覚情報を音声に置き換える」レベルでの障害!と聞くと、
 なるほど!と思います。
 確かにそうじゃないと、読字障害のひとが妙に視覚処理に長けている
 (これは番組以前に経験的に把握していた)理由が説明できないし。
 悪いのは視覚処理じゃない!のですね。
?:この番組が偉いのは原因論に留めず、話をここまで進めた点。
 実際にやってることは、私が個人的に「そうだろうなーそうするよなぁ」
 と考えていた方法論を体系化したもの、といった感じでした。
 (読む行為に合わせ複数のモード(=感覚入出力の経路)を用いさせる、など) 

更に幾つか付け加えると..

・読字障害など、他の領域では(それほど)問題ないのだけど、
ある領域だけ突出してダメって状態は、
時として「非常に純粋に」ある領域だけの問題を示すという意味で、
脳の機能障害の原因追求に非常に役に立ったり、
また指導においてもとても参考になる知見を提供してくれるひと、だったりします。
…まあディスレクシア自体、定義上LD(学習障害)の範疇に入るものだし、
そういう意味ではそれ自体「ある程度重複した問題」を扱うものかもしれないけど。

・文字の処理がそれだけ脳にとって「新しい」処理である以上、
 それは脳に負担もかけている。
 「文字をもたない部族などでは、平均睡眠時間が我々より3-4時間少なくても充分である」
 なんてー話も聞いたことがあります(*ソースは不明。俗説なのかも..)。
 私は実にそうなんだろうなーと思うのですが。

・アメリカでは200近いディスレクシア専門の教育機関があるなんてーのは、
 ある程度「分かる話」です。
 全てが表音文字である英語を用いる言語圏では、
 ディスレクシアの問題は非常に明確になりやすい。
 ↑ここでは「文字を音声化できない」問題は、相対的に重要になる。
  一方ひらがなは表音文字だけど漢字は表意文字の日本では、
 情報処理の「質」が、英語とは違っているのですね。
 特に漢字の場合、最悪音声情報に変換できなくても、
 そこから「意味」を得ることができるので、そのレベルで「問題」が減る。
 (一方で番組で示されたように、「語と語の間に空隙がない場合が多い」
  など、日本語ならではの問題もあるのだけど)
 …結局どうも、日本では西欧圏ほど明々白々なディスレクシアって、
 そんなにないようなのですね(*皆無と言っているわけでは決してない)
 あと、まあひょっとすると文字学習の方法論は、日本の方が優れている
 側面とかが、あるのかもしれない(いや別に国粋主義的な気分でもなく)..
 
・番組中ディスレクシアの若者が高度な視覚処理を見せつけていましたが
 (3次元の”不可能図形”の素早い判断や3次元的な物体をイメージ上で扱うなど)
 私アレ、できます(笑) 不可能図形判断なんて彼よりも早かったし、
 建物の立体画像(イメージ)を眼前に表示して、それをイメージ中で回転させて見るのとか、
 普通にしています(テンプル・グランディンさんも得意だそうで) 
  物心ついた頃からそういうのは得意だったし、
 当然皆そういうものかと思ってたのですが..
 だからといって読字障害ではなかったのですが
 (むしろ読むのもやたらと滑らかで早かった)。 
 …親が美術関係ってこともあるし、
 私の基本的な状態が「視覚優位」なんだろうなとはかねてより思っているのですが。
 ・幼稚園くらいからやたらと本を読まされた→読むようになった
 ・西欧圏だとモロに出たかもしれないけど、偶々日本語が向いていた?
 等の事情で、この領域ではこれまでどうにかやってこれました。

 …まあその程度のことで、どうにかなることもあるのかなと。 

 いずれにせよ上手かヘタかはともかく、
 字は読めないと今の日本では生活の質が下がってしまうのは確かなので..
 どっちにしろ、「どうにかしてできるようにしようね」
 って話になるとは思うのですが。


安田講堂