花粉症

  • 2009/02/21(土) 23:10:24

…2月も第二週目くらいから感じてはいましたが、
第三週目はいよいよ本気で飛散してますね、花粉..

 私のデビュー(笑)は中学1年の3月だったか..
屋外で活動していたときに突然涙と鼻水が止まらなくなり、
(その現れ方が非常に強烈だったので未だに覚えている)
一体何なのだこれは!と思っていたのですが、
それが花粉症であることを知ったのは高校生くらいでしょうか?
まだ世間では花粉症のヒトってそんなにいない時期だったように思います。
(私の世代だと「その年齢からだと大変だね!」といわれるけど、
 今時は小学生でも花粉症のヒトって多いような..)
当時私の住んでいた家は(古いので)気密性が低く、
窓を閉めても壁の隙間から余裕で花粉が入ってくるので、
家に帰っても心休まるときがなく、
本当にもう地獄のような苦しみを日々味わっていました。
 それを花粉症と認識してからも、何を血迷ったか
「マスクをすることはすなわち花粉に対し負けを認めることだ!」と思い込み(笑)
 実に6-7年くらい前までは、マスクもせずに外出しては苦しむを繰り返し、
食事療法→体質改善を目論み、
言い換えればその程度の対応で「どうにかしよう」としていました。
 結局すったもんだの末マスクをしたことと、
3年くらい前から親の勧めで行った専門医で処方された薬で、
アレルギー反応はかなり抑えられることが判明し、
 こうして、今はどうにか花粉と向き合ってもさほどストレスを感じることなく、
日々を送ることができるのですが..

 …状態がそんなだったので、酷い時期はかなり身体に負担がかかるものでした。
それを(上記のように)「特に対応しない」ことで放置していたのが一番いけないのですが(笑)

 その辛い時期は!
・屋外に出る必要のある全ての活動を嫌い、可能な限り外出の機会を減らしていた
・比較的厳しく該当時期の食事を制限していたのだけど、
 (卵類や肉類を控える/杜仲茶やヨーグルトを摂取するなどなど..)
 外食時や食べ物を勧められたときなど、それを守れない状況があると苛立った
・非花粉症を吹聴をするヒトを見ると苛立った!
 (そういうヒトが鼻をグズグズさせ始め、かなり状況が進んでも
 花粉症を認めないでいると、
 今だに過去の自分を棚に上げ「いい加減認めろよ!」と言いたくなる)
・無自覚に花粉を相談室に持ち込む非花粉症のケースや保護者に対し、
 言いようのない怒りを感じた(笑)
*今は主としてマスクと薬の作用で上記行動/認識には至りません。悪しからず。

…やっぱりアレですね、以前にも書いた記憶があるけど、
「自分が不幸な/余裕の無い 状況にあると、
 ヒトは他者に優しくする余裕を無くしてしまう」ようですね..

 別にコレを教訓にするでもないのですが、私に関しては、
何か、凄く理不尽な理由で自分の行動を規定している部分が多いようで、
その規制がある拍子に外れて、やってみたら物事が凄く楽になった!
マシになった、というようなことは、結構多い気がします(笑)
 ある物事を「やらない」という縛りは、
冷静に考えるとどうっでもいい理由、だったりするのですけどね。
まあその色々な「どうっでもいいことに縛られる」のもまた、人生なのだけど..


 もうひとつ。
アレルギーってのは「身体が、あるもの(化学物質とか)を受け付けない」状態
だと思うのですが、私は発達障害的なもの(特に自閉症スペクトラム系)と
アレルギーの間に何か似ている/繋がる ものを感じています。
(実際両者が重なっている状況は多いという印象があり、
私自身初回面接ではアレルギーの有無を確かめている)
 両者とも物質か行動/認識レベルかの違いはあれど、
「何かどうしても受け付けられないものがある」状況は同じなのかな、と。

 アレルギー状態が強烈で、
例えば化学物質過敏症
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%89%A9%E8%B3%AA%E9%81%8E%E6%95%8F%E7%97%87
などになると、生活を送る上で支障になる事柄があまりにも多く、
そのことが生活の枠組みそのものを物凄い規模で狭めていく。
生活の中で過敏/恐怖に対応する/しなければならない場面が余りにも多くなる
その実際の状況をドキュメント番組などで目にしていると、
何というか、それが私にとってはとても「自閉症的」な動きに映るのです。
*その状態のひとが自閉症だとか自閉傾向があるということではなく、
 「その動きが自閉症のひとの動きに似ていると感じる」という意味
 …自閉症もまた、
「他者には意味不明なアレやコレによって、自分の行動を極端に制限された状況」
であると、元来私は考えているのですが。

 花粉症なりアレルギーなりは、勿論なければないで結構なものではあるけれど、
自分がそれをもつことによって、少なくとも花粉症に苦しむヒトの気持ちは理解できるし、
またその他「どうしても受け付けられないもの」があるときに、
ヒトがどのように感じ、それが侵害されるとどのように怒り(笑)
どのように行動が制限されるのかについても、一定の認識が得られる。

 このことは相談なり発達支援の仕事をするにあたっては
まーあってもいい事柄なのかなと思います。
少し余裕ができたので思えるようになったというか。

花粉症者の悪夢

ふたご

  • 2009/02/11(水) 23:17:33

NHKのドキュメンタリー「ふたごの不思議に学べ!」
http://www3.nhk.or.jp/hensei/program/k/20090211/001/21-1930.html
を観ました。

 番組自体は別に「NHKスペシャル」レベルの高度な内容でもなく、
バラエティー仕立てなので、軽ーい気持ちで見ていたのですが。
この番組では特に一卵性双生児のみを焦点化している点が、とてもいい!と思います。
(二卵性だと、要するに”同じ日に生まれた兄弟姉妹”程度の相似しか得られないので)

 全体に物凄く目新しい内容は少ないかなと思っていたのですが、
最大の収穫は、1歳半くらいのふたごの様子、でした。
 おそらくこの時点で全く同じハードウェア上で、
殆ど同じソフトウェアを走らせている状態のふたご!
の行動を(少しだけど)目にすることができて、とても幸せでした。
上記の理由から自然に同じ行動をとり、
その行動自体が(同じであることによって)互いの行動を更に強化し合うふたりの様子..
 そして ”ツイントーク” ←それと思って見たことは初めてかもしれない
ふたごの赤ちゃんが、私たちの言語体系とは異なる独自言語で、
それなりに多音節の発声でのやりとりを行い、
それが明らかにコミュニケーションとして機能している(=何かの意味/情報を伝え合っている)。

…凄い。

 ふたごが「同じハード上で同じソフトが動く状況」では、
外の世界で既に成立している言語に合わせる!という活動を意識する以前に、
既存のソフトを利用した意思の疎通が、成立してしまうのですかね?
ゲストのマナカナも
「(自分達の間では)伝える必要のある言語情報はそれほど多くなく、
 幾つかの単語を述べるだけで、相手に過不足無く内容が伝わるので、
 他者がそれを見ると”あれで通じているのか?”と不思議に感じるらしい」
といったことを述べており、これがまぁ世に言う”双子のテレパシー”なのだろうけど。

 してみると、言語ってのは、
その人間が自分自身についてだけ!ものを考えたり、
考えを整理したりするだけのものであったとすれば、
そこで必要とされる言語体系ってものが、
今私たちが学んだ言語(=日本語)である必要は全くない!のかもしれない。
 ただ言語にコミュニケーション(=他者との意思疎通)
の目的があるから、私たちは周りの大多数が使っている言語を、
「便宜上」獲得するだけで..
 実際には私たちはその言語を使って、自分だけの思考も行うわけだけど、
(=言語相対性仮説)
そうやって獲得してきた言語には、生来のものでないという点において、
それなりの制約/機能的限界もあるのかもしれない。
 …「ふたごふたりだけの世界」が、もしあったとすれば、
そこでふたりは、初めから何のためらいもなく、
互いの間に自然に発生した言語を使って、
何の不自由もなく暮らすのかもしれない..

 
 私は元来ふたごには非常な興味がありました。
きっかけは別に「身近に居た」とかそういったことではなくて、
10代半ばに読んだ本の影響でのことなのですが。
http://www.tsogen.co.jp/np/detail.do?goods_id=2093
(*この本は別の項
 http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-124.html
 でも採り上げていますが、
 だからといって本書もハインラインも、
 別に不特定多数に向け超お勧め!というわけではありません。
 そもそもこの本って絶版だし..)
 
 実際この書でハインラインの示す、ふたごについての見通しや振る舞いの特徴、
ふたご特有の心理に関する描写等は、
今回の番組で示された数々の特徴と照らしてもほぼ破綻しておらず、
1950年代に書かれた小説としては恐るべき完成度(と観察力)と言えます。
私はこの本を読んで、はじめて、ふたごと、
それから紡がれる「心理学の世界」に、興味をもったように記憶しています。


 …番組がそうであったように、ふたご(特に一卵性)はまた、
遺伝が人間の振る舞いや発達、ひいては人生に及ぼす影響の大きさについて知るための、
重要な資料を提供してくれます。

 この仕事をしていれば
「人間の発達に遺伝がさほど関与していない」
「人間の行動や発達の多くが、周囲の働きかけや環境で決まる」
と考えることはかなり意味が無い!とは分かることなのですが
(…遺伝を無視して発達絡みの仕事をやるのは、かなり非効率的だと思う)
私自身はそのことで、過度に悲観的になったり、努力しても無駄だと考えたり、
運命論的な思考に囚われたりすることは、それほどありません。

 遺伝は要するにポテンシャル(潜在性)のレベルで重要な資源なのであり、
それを引き出して有効に用いるか、そうでないかを決めるのは、
結局のところ周囲の努力や働きかけ、
環境等の要因に拠るところが、依然多いと思うのです。

要するに
・遺伝は、発達を検討する際の変数として、常に無視できない程度には重要である
・とはいえ遺伝的に「固定」された要素を差っ引いても、周囲の者にはできることが一杯あるし、
 しなければならないことも沢山ある、と。


双子座

対応のレベル

  • 2009/02/06(金) 23:36:47

 2月に入りました。事務所に入居して1年。
…よくまぁこんな寒い時期に暖房入らない状況で作業したよなぁと今更感心。


 先日某所で仕事中に即興で喋ったことが、
結構「本当にそうかもなぁ」と思ったので(笑)以下にまとめます。

 発達障害という「状況」についての対応は
大まかに以下の3つのレベルに分けられる。
*ここでの児に対する「対応」とは別に、
 専門家としては保護者に対する「相談」も重要な業務である

? 児の特徴や傾向・こだわりを理解し「それに合わせる」対応
? 児の特徴やこだわりを「利用して」適応行動に結びつける対応
? 児の特徴やこだわりは別にして!適応に必要な行動を「押し付ける」対応


?:私が講座なんかで喋るのは、殆どこのレベルの話です。
  というのは、このレベルの対応が、保護者の方や子どもを扱う機関の方等
  「発達の専門家でないヒト」に期待できる、当面最上の対応だと思うからです。
  このレベルの認識や理解なしで対応されている児は、
  そもそもが適切に理解されて処遇されていない条件下で
  周囲への適応を求められるという点で、
  「不合理な」状況に置かれているのだから、まずはこれを是正するべきで。
   そのためには児の特性を理解し、それに寄り添う対応が必須となります。
  幼稚園や保育園、学校等の機関としても、
  この発想を経ずして?なんかを強制していると
  (それは非常に多くの場所で日常的に起きている事なのだけど..)
  大概ロクなことにはなりません。

?:ある意味一番見逃されがちな対応。
   個人的には(今更言うまでもなく)一番「好み」の対応であり、
  技量的にも発達の専門家や、児を扱う機関内でも「センスのある」職員でないと
  基本的には応じることのできない「エレガントな(洗練された)」対処だと思います。
   児の特性を理解した上で!そのこだわりなどを逆手にとって、
  児に適応行動を(結果的に児自身が選択した形で)とるように「仕向ける」。
  コレが成功すると、相談や指導の場面でも非常に気持ちがいい(笑)
  カウンターのストレートが入ったというか、相手の力を利用してブン投げたというか(笑)
   対象の知的能力等と関係なく繰り出せる、という意味でも、
  プロとして「遣り甲斐のある」「面白みのある」対応といえます。
  それだけに実施にあたってはセンスと相応の下準備、対応の即興性が求められます。
  
さて?:
  私がコレを「洗練されていなくて嫌い!」かというと、
  別にそうでもありません。
   2008年度が私にとって「指導」という方法論に触れる重要な機会となった
  のは事実で、私も指導の方法論や効果についてはここまでずっと!
  考えてきました(この辺りは追々述べます)。
   実際問題児の知的能力、適応の度合いが高ければ高いほど!
  他児や周囲の動きに近い動きを要求していくのは当然のことだし、
  個人の能力に高さに比例して高い適応=周囲に合わせた行動
  が求められるのも事実です。    
   ただ?については(上でも既に触れていますけど)、
  「?は当然として、?のレベルに達してもいないヒトでも実施できてしまう」
  対応であることに、大きな問題があるのです。
   児を理解せずとも行動や価値観を一方的に「押し付ける」ことはできるし、
  (更に言うなら「相手を理解しなければしない程、強引な対応ができる」)
  それが強烈な形であれば、一時は成功するかもしれない。
  コレに力づけられて、どこまでも?の水準を無視して強制を仕掛ける
  といった反応は.. まあどこかで破綻しますね。
  只その破綻が数年後だったりするので、
  対応者としては自分のミスを一向に自覚しないまま、なんてことも往々にして起こる..
   私は?のレベルの対応も、児に対する何らかの「指導」を行う際には
  重要だとは思うけれど、常に?の、できれば?の方法論も理解し実践できた上で、
  その水準の専門家によって!行われることが望ましいと思っています。
    

 もうひとつ。
?はともかく?にはある程度「児の動機づけをコントロールする」側面があります。
行動の調整には動機のコントロールは不可欠ではないにせよ、
それができていると圧倒的に効率が良くなる要素であることは確かです。
 ?においても、周囲にあわせた行動をとることが如何によいことか、
如何に児にとっても利益につながることかを説き、
児自身の動機付けを高める対処を併用すれば、単なる行動の強制を超えた、
より優れた/洗練された アプローチになるのだと思います。

 児への対応/指導にあたっては、
上記してきたような観点を予め押さえておけるといいかなと思います。


まとめると
?は児の保護者の方や子どもを扱う機関として求められる対応水準
?は公的相談機関レベルで求められる対応水準
?は指導が求められる機関で必須の対応。
 但し「有効に機能させるには! ??の方法論理解と実践経験が必須」

というところでしょうか..

 認知課題における課題設定なんかは、
?:児の特性理解のため、
或いは?:児の理解や認識の歪みを調整するアプローチ
などに該当するでしょうか..
 構造化は児の特性を利用する点で?より?に近い発想。
 SSTなんかは、周囲の観点や道徳的行動を「押し付ける」という意味では、
本来?の領域に属するアプローチなんだよなと思います。

合気投げ