資料作り

  • 2009/04/28(火) 23:13:29

本日は講座の資料を作る。


今回は、フリーになって以来初めての「オープンな」講座仕事ですね..
それまでは全てクローズドな(=外部に閉じた)状態で、
集団/機関に対し実施する講座だったのですが。

…とはいえ前の職場ではこのタイプの仕事もそこそこしているし、
話す内容に関連した資料の蓄積もある、ので..
 (かなり集中して)3時間くらいで、とりあえず叩き台となる資料を、
組み上げてみました。
 こういう仕事をひとつすると「充実した一日だなぁ」と思えますねぇ..
まだ実施まで時間もあるし、あとはひたすら手直しを重ねていくわけですが。


今回はオープン講座だけに、気をつけるべきは
「難しくしない」ことですね。

最近読んだ本で、ある学者さんが
「インテリは、自分の文章を必要以上に難しく表現したり、
 やたらと難しい資料から引用したりする傾向があるが、
 それは自分が誰でも理解できる簡単な言葉遣いをしたり、
 ”基礎的な”資料から引っ張ってくるくらい”程度の低い”
 表現者だと思われたくないという防衛本能からそうするのであって、
 実際には基礎的なものだとしても(使う側はともかくとして)
 読む側からすれば重要で”引くべき資料”は、本当はいくらでもある」
といったようなことを述べておられました。
全くおっしゃる通りですね。

* 世のひとは概して「難しいことを簡単な言葉で話すひとは頭がいい」
 的なことを言う傾向があるし、私もそれに大部分同意しますけど、一方で
「ある程度以上難しい話をするときには、難しい話し方になるのは当然」
とも思っています。
 …難しい話をするときは、その話を構成する各種の概念も、
 それに応じて難しく(=平易な言葉で変換できない性質のもの)なることが多いわけで..
  療育の世界でも、発達の基礎的な概念とか、
 発達心理や障害児心理の基礎的な概念/単語が入っていないと、
 やりとりが成立しない「難しい」話はそれはそれである、と思います。
 …とはいえ、例えば理論物理学者の雑談に比べれば、
 「傍で聞いていて全く理解できない」レベルの会話とはならないでしょうね。


 私は「小難しい表現」は大好きなのですが(笑)
(*ある種のケースのお子さん群がまた実に!
 そんな感じだったりして、それが微笑ましくも昔の自分を思わせて痛々しい..)
講座等で引用する文献や提示する参考資料の方は、
実に基礎的で読みやすいものをチョイスしてきているつもり、です。
…というか、
「引用したり参考文献に示せる文献となれば、
 自身でそれを確実に理解しておく必要もあり、
 そうなると(私自身の能力的な限界から)難しい資料は引っ張ってこれない」
という事情から必然的ににそうなっているだけ、の気はするのですが..
インテリへの道は遠い、ですね..

 誰しも「頭よく見られたい」「○カに思われたくない」
という欲求はお持ちになるだろうし、かくいう私も物凄く!強いのですが(笑)
 とりあえずその欲求も、存在さえ認識しておけば、
(仕事の場面でなら)ある程度コントロールもできるわけで..

 ただ余りに無知でバ○だと思われると、
他所様からこういうお仕事を頂けなくなるので(笑)
その兼ね合いも考えないといけませんね..
 
…そんなことを考えながら、
今回は私にしては珍しく!
資料も少な目にまとめつつ、作ってみました。
…直しを重ねているうちにいつもの(限界ギリギリの..)
量になっていくのかもしれませんけど。


「発達の歪み」を視覚的に表現

「やればできる」 のか?

  • 2009/04/25(土) 23:28:39

最近、特に今週のテーマです(笑)

*課題設定にもテーマがあったりするし、
 相談にも往々にしてその時期その時期のテーマが存在します。
 例えばその時期にはいろんなケースの方と、それぞれの状況に関連しつつ
 そのテーマに沿った内容を話している「ことが多い」って感じ。 
 …私だけかもしれないけど。
 
 直接のきっかけは、先月くらいに読み返していた本に書かれていた文言です。

(*著者はこの時、
「ある行動」が他者によって制止され、それを諦めきれない状況で煩悶している)

『…失恋した男がどうしても諦めきれず何度も電話やメールをしたり、しまいにはストーカーになってしまう心理にもよく似ていた。それは非常識だからとか非社会的だからではない。
「世の中頑張ればなんとかなる」「努力したものは報われる」「真心は必ず通じる」というふうに子どもの頃から学校や家庭で、長じては社会人になってからも常に職場や仕事先で教えられているからそうなるのである。』

高野秀行著.2007.「怪魚ウモッカ格闘記」
http://www.amazon.co.jp/%E6%80%AA%E9%AD%9A%E3%82%A6%E3%83%A2%E3%83%83%E3%82%AB%E6%A0%BC%E9%97%98%E8%A8%98%E2%80%95%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%AB%98%E9%87%8E-%E7%A7%80%E8%A1%8C/dp/4087462153/ref=pd_sim_b_4
(p215から引用)

…別に本の内容はどうでもいいのですが
(この方の本は療育とはほぼ無関係ですが、
 認識論とか異文化接触とか言語学とか、ものを考えるネタには結構なる)
上記文言がこの時、私のツボにもろに入りました。
 著者だって半分以上冗談で述べているような気がしますが、

…冷静に考えてみると、本当にそうやって、ストーカーになったり、
ギャンブルに狂っちゃったりするひとって、いるんじゃないだろうか? と。

 これに真面目に突っ込めば
「そのような教えをいちいち真に受けるひとの方にこそ問題がある」とはいえるのですが、
 考えてみれば世の中には確かに、
「教えられたことを、いちいち真に受ける」人たちがいるわけで、
特に私は仕事柄、「そういう人(子)」と対面していることが多いのであるな、と。

 確かに私も「やればできる」「願いは叶う」「想いは伝わる」的な
教育を受けてきた気がするし、そうでなくても社会にその種の
(私に言わせれば、「呑気な」)情報は多いわけで。
 私個人については、かなり小さな頃から
「…それは違うな」と考えていた確かな記憶があるので、
(*私は当時、兄に気遣って数年間「サンタがいる」と信じるフリをする程度に、
 イヤぁなガキ、だった)
人生の中でこの種の「誤」情報(と言い切りますが..)
に大いに乱された記憶は少ないのですが、
私の関わっている子たちは..入っちゃいそうな気がする。
いや既に入っているかも。

別に
「教育や道徳や社会が、この種のメッセージを無自覚に発信するのがいけない」
という気分なのではありません。
 この話をした上で、ある保護者の方が述べられたように
「子どもに明るい、希望に満ちた話をしたい」という気持ちも、
当然大人やひとの親には、あるのでしょうし。

 …でも言っていることは、ウソですよね(笑)

 教育者やその他「立派なひと」がその種の言葉を発するとき、
そのひとは自分が「必ずしも事実でないこと」を口にしていることを自覚しているのでしょうか?
*「希望を口にして何がいけない?」と返されるかもしれません..
 「希望を口にする」こと自体は個人的にも結構なことだと思うのですが
 「希望を事実のように話す」となると、それはウソだよなぁと思います。
私は多くの場合程度の差こそあれ自覚はしており、
ただ聞く側がそれをある程度割り引いて聞いたり、
その瞬間は信じていなくてもいつから適切に理解することを想定しつつ、
話しているのではないかな、と想定しています。
 それは論理的にはともかく「人間として」基本的に正しい行動なのだと思うのですが、
一方でその種の「情報をまともに受けすぎる」ひとへの配慮は、
そこには認められないわけで(…まぁ存在の想定もしていないのでしょうけど)。
 

 私自身はこの誤謬?を明確にではないにしろ前から自覚はしていたようで、
仕事上、子どもに
「やればできる」
と説いたことは一度も、ありません。
ある種の子どもにとって、発言は可能な限り正確を期するべきだと思うし、
これについては
「やらないとできない」
という発言なら、大丈夫かなと思っています
(*但し「ある種の子ども」は否定形表現を直感的に理解できない..)

「願いは叶う」
「想いは伝わる」
「努力は報われる」
「真心は通じる」
…言ったことないですね(笑) ←自分が(冗談でも)そんなことを信じていないのが強みか?
「言わなきゃ分からないし、相手に理解させなければ、言った意味がない」
とは言います。
「努力が結果に結びつかないこともあるが、自分の糧にはなることはある」
的なことは(勿論もっとくだけた表現で)言うかな..

 とりあえず断言は、ダメだと思うのですけどね..
命令調の指示のときは断言調で仕方がないとして、
価値観や考え方、心のような微妙なものを扱うときに、
何事も断言しちゃいかんよなと、個人的には思います。
たとえそれが「肯定的」で希望を含んだメッセージであったとしても。

 …でもひとは「前向きなウソ」も、それを断言するひとも、好きですよね..
 ひとって不思議だ(笑)

 保護者の方には
「…そうやっていて、殺伐としてきませんか?」
等と聞かれましたが(笑)..


 療育は、基本的に綺麗事が通じないところでの仕事だと思っています。
事実ではないことを話して結果的に子どもを混乱させても意味はないし、
何事も事実を淡々と告げていけばいいことかなと思います。

「子どもには汚いもの、醜いものに触れさせたくない」
という大人や親の気持ちに対しても、私のスタンスは同じです。
「いずれは自分で考えて分かってくれるだろう」
と期待できる子どもに対しそれを望むのは正当な行為ですが、
どうもそうではなさそうな子、なのであれば..
私は小さい頃から、淡々と事実を告げていく必要はあると思います。

「ひとは、いい人間だけではない」
「全てのひとと仲良くなれるわけではない」
「ひとと分かり合えるとは限らない」
「好きなひとに好かれるとは限らない」
「”いいひと”でさえ、常にいいひとであるとは限らない」
「ひとは基本的には他人のことよりも自分のことが大事だ」

…こういう「殺伐としたこと」を教えるのも、
先達たる大人や親のとるべき姿勢だと「基本的には」思うのです。
*上記したように子どもが誤情報からでも
 「適切な学び」を得ることができるという見通しがあるならば、別。
 また大人や親の側の希望や都合や綺麗事やウソ(*事実と異なる情報)だけで、
 子どもが問題なく育って、そのまま死ぬまでそのウソを信じていられる保証があるなら、
 それも別ですが..


…私は事実(或いは現実)の元に、事実を積み上げて仕事をする、
リアル志向というかそういったスタンスは嫌いじゃないですけどね。
(とはいえ世間にある「療育」が全て、
 上記の意味でリアルなわけでもないよな、とは自覚しています。
 勿論その是非は別にして)


ふーん

お金の扱い

  • 2009/04/14(火) 23:29:50

本日のお買い物。


…実はずっと探していたのです。
代用貨幣/紙幣というか課題として「使えるお金」を。

買い物の勉強というか、練習
→更に進めば必要な購入物に応じたお金の準備、等を、
どのレベルまで課題として掘り下げてやるかというのは、
個人的には何年も前から考えていたことで、
ただ前の職場では「相談の枠内でそこまでせんでもいいだろ」というものだったのですが。

 時間観念や時間の厳守と、ある程度同等かそれ以上に、
お金の観念や管理というのは生きる上で大事なスキルであって、
でもそれらは、なかなか教えることが難しい観念の双璧でもあって。
 それは両者とも日常的にかなりの経験を積まないと取得できない、
高度かつ微妙な観念だからだと思うのです。

 実際「お金の使い方をマスターしている人」って、いますかね?
…まあとりあえず稼いだ額よりも常に少なく使っていれば、
それは当面それでいいのでしょうけど。
実際には稼いだ金を全てかそれ以上、速攻で使ういい大人なんてーのも
発達段階やバランスとは関係なく、そこら中にいるわけで..
 かように「お金について学ぶ」のは難しい!

 お金の勉強をすることを考えると、実際にお金の振る舞いをする道具が必要で、
ここしばらく、その道具を探していたのです。
ギャンブルで使うチップ等の代用硬貨や紙幣/
モノポリーのお札とかでもいいかというと、全然それではダメ!
発達のバランスがよくないケースは、それを一般化できないどころか、
使う側はそれを使う時点で「お金の代用だ」というイメージ処理を施さなければならない。
(逆に言えばモノポリーとか人生ゲームをできる人は、そのスケールはともかくとして、
 アレをお金の代用として見れる程度のイメージ処理ができるひとなのですね..
 どうもでもいいけど、成長した自分のケース達と一緒にモノポリーができたら、
 さぞかし楽しいだろうなぁ、と私は偶に思う..
 「ケースと酒を酌み交わしたい」とかは思わないので、その代わりですね、きっと)

 結局のところお金の難しさは
「それ自体は意味を持たないが、別のものと交換できる」
=価値の「象徴」でしかないところにあるのだと思います。
時間と同じく、本来の意味である価値それ自体は、
目にすることも手に取ることもできない。
あるものに別の意味を持たせる/乗せることへの苦手 な子は、そこで引っかかる。

 日常生活の中で子どもお金の価値を入れるには、
かなり明確なお手伝いなり労働を課して、
それに対しきちんきちんとシステマチックに対価=お駄賃を与えることしかないかな、
と個人的には思っています
(とはいえお駄賃実施の仕方も、実際にはいろいろと注意すべき点はあるのですが)。
 敢えてここでひとつだけ注意を述べると、
「稼いだお金の使い方に制限をかけない」ことですね。
 制限をかけることでお金の本来のリアルな意味が損なわれるので。


さて本題。
…いっそお金の現物をスキャンしてつくったろかと思ったのですが、
冷静に考えるとそれは資本主義の根幹を揺るがす大罪なので、あえなく却下。

 というわけで「丁度いい」お金を探していたら、ようやく見つかった。
硬貨も全種類。色や形も似せている(細かな孔が空けてあって万が一の誤用を防ぐ)
紙幣も、小さいのだけどデザインは概ね同じで、
明らかにこの世界に不要となった2千円札も含まれている(笑)
これをあと数セット揃えれば、
個別のみならずグループ指導でも実地に使えるだけの「お金」が作れるかな..
まぁ、お金の課題って、苦労して作っても使うのは一瞬なのですが。


 もうひとつの購入物は、デジタルメトロノーム。
これはもう一方の難物、「時間」に関連して。

「早く!」「いそいで!」などの指示に反応しない子どもって
なんかやたらと多いのですが、彼らにはその種の指示が、
感覚的に理解されていないのでは? と思うことがあるのです。

 「急いで!」
といわれても、何(どこ)をどう急ぐのか、分からない..
(これについては私は生来分かるので、
 「分からないその感覚は分からない」のだけど、
 どうもそうなんじゃないかという子が結構いる..)
 で、急ぐ!という状況を視覚或いは聴覚情報として
「テンポの速さ」によって捉えることはできないだろうか?
と考え、メトロノームを買うかぁと思って商品を眺めていたら、
世の中にはLEDの明滅と音でテンポを知らせる、
便利なお道具が存在していたのですね。
多分演奏者等が使うのでしょうけど。
まぁ使いどころは難しい!とは思うのですが。安かったし。

お金

デジタルメトロノーム