努力 (再考)

  • 2009/10/30(金) 23:30:02

ここ数週間考え込んでいること:

「努力」って.. 何でしょう。

定義をnetで引くと、
「ある目的を達成するために、途中で休んだり怠けたりせず、
 持てる能力のすべてを傾けてすること」(新明解国語辞典)
だそうで。

以前

http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-39.html

「努力するにも才能が要る」
のようなことを書きましたけど、最近考え込むことは、
「自分の好きなことをひたすらやるというのは、
 それは果たして努力の言葉に値するのか?」
ということです。

 私は以前某所で某最高学府大学の学生さん数十名に対し、
ある検査をとるバイトをしていましたけど、
その方々は(同時期にとっていた某有名私立大の学生さんたちと比較して)
…やっぱり生来、
「お勉強」や「割り切れるもの」や「勝利」や「正解」や「きっちりしたこと」が好きというか、
そんな感じの方が多くて(もちろん例外はあるのですけど)。

 …「勉強が好きなひと」が好きな勉強をすれば、それは努力、なのでしょうか、ね?
(ただ上記に「他にやりたいことがあるのにそれを我慢して!」
 という言葉を付け加えると、努力のニュアンスが増す、とは思う)



 上記と関連があるような気もする(ないような気もする)別の話:

 私の住居地の近くの某所に最近開店した軽食のお店があったのですが、
なんとなーく仕事帰りに眺めていると、
ある時間帯から〇ンキー然としたルックスの方々のたまり場になっている(笑)
経営者だかがそのOBだか関係者なのかもしれないけど、
正直そういうイメージが着いちゃうと、
(地域や周囲の店舗等のカラーからいっても)そぐわないし、
経営的にマイナスでは?と考えていたら..
どうもやっぱり、もの凄く客が少ない..
それはもうお店の味がどうこうというレベルではない勢いで、
とりあえず客を見かけた例がない。
そんな認識を得てから後、
実際凄い早さで先日閉店のお知らせを確認するに至った次第。

…以下は、とりあえず飲食店の話として、
 経営者が(まー大体若いひとのイメージとして)
「俺の/俺たちにとっての居心地の良い場所」とか
「俺にとって理想の/満足できる味」
的なものを求めて店を開けたとして、
それで実際にうまくいっている店って、どの程度あるんでしょうかね?

 私はまぁ、基本的にはうまくいかない、気がするのです。
そう標榜しておいて実際に経営が成り立っているお店は、
建前として(”好きなことだけやって成功する”って、まぁなんかカッコイイしぃー)
そう言いつつも、裏ではリサーチやマーケティングを重視したり、
客のニーズを意識したり、製品やサービス内容に細かな変更を施したり..
その種の職業上の配慮はしているのでは? と。

 一方で、その表向きメッセージを真に受けて
「俺の/俺たちの」居心地とかノリを、クソ真面目に追及しちゃった日には..

…このような動きには
「ありのままの自分を認めて欲しい」
「ありのままの自分には、それだけで世間に認められるだけの価値がある」
という、傲慢だか幼稚だかな個人の発想が垣間見えて、
正直それは「プロ意識」とは異なるベクトルなのではないか、と私は評価します
(平たく言えば「好きではない」)。

*最近「他人の”傲慢さ”は嫌いだけど、”幼稚さ”はそんなに嫌いではない」
 自分に気がつきました。
 …まぁそれにしたって、物事には限度というものがありますけどね..

 勿論「ありのままの自分」、「飾りや虚飾のない本当の自分」
とやらをそのまま受け入れてほしいってのは、
多分人間の根源的な欲望のひとつではあるのだろうけど、
少なくともいい歳こいた大人がそれを他人に求めても、大概は..
そういったものは「限定的にでも得られれば、それで十分では?」
と冷めた私は思うのですが。

 最近読んだ本の中で
「自殺企図/未遂を繰り返すようなひとは、
 概して”世間や他人が自分を気持ち良くするためだけに存在している”
 かのような思い込みを抱いていがちである」
といった文言を目にして、
それは実にそうなのだろうなぁと納得するところもあり
(個々に見れば勿論例外や忖度すべき事情もいろいろあるのでしょうけれども)。

 ↑ただこの種の「概ね誤った認識」は..
 私の仕事やそれに関わる部分では、
 比較的多くみられるもの/そうならないよう警戒すべきものの気もするのですが。
 これがケースの中に見えたときは、とりあえず崩しにかかりたくなります。



「自分のしたくないことはできない/したくない」
「自分のやりたいことだけをやりたい」
等と心から思い、正直に言ってのける心性は..
軽度発達障害圏のケースの場合、多いという実感があります。
実際その辺り、彼ら彼女らは実に「正直に」自分の希望を口にし、
更にそれが現実に/世間に認められる正しい認識だと信じているわけで。

「自分を受け入れない世界など受け入れない!」
では...何も進まない気がします。
 自分にとってイヤなことを受け入れない/避けて通る、こともまた同じ
(まぁ何でもかんでもそこら中で戦いを挑んで回ればよいわけでもないですけど)。
「受け入れない」そのままの自分を一度許して、受け入れてしまえば、
それによって個人の選択可能な世界は次第に狭くなります。
(自分がイヤだと感じた世界を避け、そこは選択肢としてほぼ排除されてしまうので)
 そして最終的にはその程度の個人を受け入れる他者など..
よくてもせいぜい家族のみってところに行き着くわけで。
(それなりに実感のこもった意見として。はい。)

 それなりに真っ当に生きようと願う人間は、
基本的にはその領域へ近づくことを避けるべきだと思うし、
そのためには..
「イヤなことを、それと覚悟した上で」やることを、
「高い志をもって日々欠かさず実践する」かどうかはともかく、
…少なくとも自身の行動レパートリーに組み込まねばならない、と思います。

 実際私たちは自分の好きなことだけをして!
それだけで一日を終えることすらなど皆無だし、
大概はその現状をある程度甘んじて受け入れ、
まぁそういう意味で「努力しつつ」日々を送っている。

*私は高校だかの時分に、文集だか(笑)に将来の希望として
 「ひとに頭を下げずに済めば…」
 と書いたことを、つい最近ひょんなことから思い出した。
 そんな過去の自分に対し、心の底から
 「バァッッッカじゃねーの!」
 と言い放ち、ついでに唾くらい吐きかけてやりたい。
 実際ひとに頭を下げない日なんかないし。サービス業だしね。


 …。

 私は最近、努力というのは、
「好きなことを続けること」ではなく、
「(お勉強や資格取得のように)世間的に受け入れられることを続けること」でもなく、
 「あることをひたすら続けること」ですらなかったりするのでは?
 と考え込んでいるのです。
(要するに、”マニアックな”というとアレですが、
 自分の好きな少数の趣味のようなことだけをして
 生きていきたいひとというのはそこそこいるわけで、
 その種の”自身の指向と一致することを続ける”活動を..努力と言えるのか?)


 努力とは、
「嫌なこと/好きではないけれどせねばならないこと を、それと承知の上で行うこと」
なのではないでしょうか?

*これはこのブログで過去に触れてきた「責任」や「覚悟」の観念に近いというか、
 進んで自身の不利や苦痛に耐え、
 その結果としてそれ以上のものを目指す思考或いは活動というニュアンスですね。
*「努」という漢字の語源から考えると..
 「奴(奴隷)の力」として、
 努める・「耐え忍ぶ」的な意味合いが込められているようで。
 …あー「○の○に力」ってのは俗説なんですねー。

  それ故に、乳幼児や発達的にごく初期の状態にあるものには、
 努力やをそれを強いる他者からの行為そのものが成立しない
 (不利なことや直面している苦痛に耐える心の体制/強さを持たないし、
  努力の結果得るものが見えない/認識できないので、動機も保てないから)。
  「努力」が比較的高度な心の機能、であることは..
 いい歳こいた大人でも目の前の苦痛や不利益から目を背け、
 努力を欠いた生き方をしばしば選ぶことからも、明らかでしょう。
 
 だからこそ、上記の意味での努力は希少だし、
 それ故に尊いと言えるのかもしれません。


 イヤなことから逃げて逃げて逃げ続ける生き方は..
まぁド外れた大金持ちでもないとなかなか実現できないし、
正直そういう境遇に生まれて葛藤から好きに逃れることのできる生き方が
たとえ現実にあったとしても、私はそれを羨ましいとは思わない
(というのは実に貧乏人臭い発言で、自分で書いていて嫌気がさします..)
 少なくとも私は、その種の努力、嫌なことを自分なりに扱うことなしに、
現状まで自分をもっていけたとは到底思えないから。


 イヤなことをそれと認識した上で、
正しく扱う(正対するなり避けるなり逸らすなり)方法論を学ぶ過程を通じて、
ひとはどうにか強くなることもできるし、
そういったときにこそ!進んで物事を学ぼうともするし、
…そうやって賢くなり、新しい環境に適応する能力/可能性を高めることもできる。
そうして生き方の選択肢を増やすことだって!できるのだと思います。

「苦痛や不快なことから身を遠ざけたい」
というのは、人間や全ての生物の性なれど、
だからこそそれをどう扱うかでそのひとの生きる姿勢も分かるし、
その姿勢自体、磨いていくこともできるのではと思います。


 …ちなみに私が嫌いな人間の二大属性(ここ10年くらい変化していない)は
・「無○(流石に怖くて書けない)」と
・「怠惰」
 です
 (…最近個人的に注目している女性詐欺師の事件ですが、
 彼女の高校時代だかの時分に嫌いなものは、
 「貧乏」と「バカ」なのだそうで
 なんかそれを書き散らす幼稚極まりないメンタリティを、
 とても他人事とは思えない自分が、嫌)。
  しかもその二つは、大概の場合同時に成立するものであり..
 (*貧乏とバカの二つじゃありません、念のため) 

 とりあえず自分の内にある無○と怠惰については、
生きているうちにどうにかしたいなと思いつつも、
それがどうにもならないのもまた人生だったり、で..


 私はなんだかんだ言って「真面目な人」は好きだし、
(だからこそ大概のケースのお子さん方は好きだと言えるわけですが)
何かを学ぼうとするひとの動きも、好きです。
それらと同等に、
努力するひと/努力を通じて自分の問題に向き合えるひと、
自分を高めようとするひとの姿勢も...

やっぱりどうも、好きなようですね。

「悪魔が来たりてお菓子をねだる」 *本項の内容とは無関係です

変わらないもの

  • 2009/10/19(月) 23:51:41

 休みの日を使いあぐね、出先からの帰途、
ここ10数年来殆ど通る/行く ことのなかった街に立ち寄ってみました。
(ちなみにJR府中本町/京王線の府中近辺です)
それ以前は親戚の家に行く際に経由した駅なので、
それなりの頻度で通っていた、のでした。

 当たり前ですけど、いろいろと変化しています。
最近「街の変わり様」を認識することで!
自分も歳をとったよなぁと実感することが多い、ですね。

 で、新たに玩具店を発見。
…どう考えても10数年前より遥か前から在ったっぽい店構えなのですけど(笑)
ヘタすれば私が生まれるより前っぽい..

 店の中(在庫)も、素晴らしい..

 私は今時の玩具もそれなりに好きですが、
それはトイザらス系を筆頭に、
まぁ「どこでも買えるもの」であるわけで。
 「昔の在庫を扱う地域密着系の玩具店」こそ、
私が日々捜し求めているものなのです。
旅行など行った先でも、常に目を光らせています。
(一方で都内では、諦めて中古玩具を扱うハードオフなども巡回するのですが)
その中には、店構えこそクラシックだけど
在庫は普通に時代に追いついている(笑)というのも多くて。
…いや、いいんですけどね、普通に営業努力していらっしゃるってことなので。
私はなんとなくガックリきますけどね。
(5-6年前まで大井町駅近辺にあった、いい感じの玩具店は
上記「頑張っている系」。私はそれはそれで、好きでしたけど。
大井第一小学校近くの模型店とか、良かったんだけどなぁ!個人的に)


 で、今回は..生涯ベスト5に余裕で入るほど、
全然古い在庫ばっかで(笑) 素晴らしすぎる。
購入したものは、まぁ課題設定や教材を考慮したものですが、
全て定価で100円か200円モノだし..しかもまだまだある。
 個人的な趣味の領域の玩具にしても、なんか凄いことになってましたけど
(在庫は古いけど別に安売りしていない系..だから売れ残ってるのでしょう)。

 
 多分療育に携わる人間の中でも「かなり玩具が好きな方」に位置しており、
(…但し木製玩具趣味とか「naef社の玩具じゃないと!」とかの高尚系に非ず)
玩具店を巡るのが趣味という自分は..
まぁその辺りのメンタリティが、昔からさほど変わってないのでしょうね。
今更私が述べるには普通過ぎる発言であることは承知の上で
「三つ子の魂百までって、本当ですよねぇ..」 
…ねぇ。

 ただ幼少時期の趣味/価値観、こだわりに対し、
その後の環境の変化や「年齢相応の振る舞い」プレッシャー等を
ある程度跳ね除けて、関わり続けようとする精神状態は..
やはり何らかの(発達的/心理的な)偏り等を想定した方が、
「理解しやすい」のかもしれません。はい。

 でも現在の玩具への興味の半分は「課題/教材として使える玩具」に移行したのは、
変化と言えるのかもしれず..


…また行く用事を作らねば。
競馬趣味でもあれば問題ないのでしょうけど、府中だし(…後は刑務所だが..)。


みのる屋


これはザらスで購入

古典的ビックリ缶

パタパタハンド

組み合わせボックス

なにせ100円だし..

吹き矢

呼吸訓練系として

マジックローラー..動きが好き

どうぶつしょうぎ

  • 2009/10/16(金) 21:40:15

 どうぶつしょうぎ、です。

http://joshi-shogi.com/doubutsushogi/

世間でもそれなりに話題になっていましたし、
私も某新聞で目にして、興味をもったクチでした。
(2人対戦用のボードゲームは、仕事的にチェックが入る)

 購入してからここ1ヶ月くらい、
仕事で使っていましたけど、いい感じ、ですね。

「療育の観点で何を狙っているか」
については敢えて述べませんが(笑)
これの使い方や理解の進度、実施法の変化の様子で、
それなりに私の見たいものを見ることが出来ます。

それはそれとして..


 私は将棋が弱かった。
自分より明らかに(知的側面で)格下と見做していた某近親者(笑)
に、生涯一度も勝てたことがない!(っても小学校低学年くらいのことですが)
ことからも、自信をもってそう言い切れます。


 何が弱かったのかを今考えるに

・部分に反応し全体の動きに対応できない
(特定のコマの取った取られたに固執し拘泥し過ぎた)

 ということも大きかったのですが、

・「詰める」方法論が完全に無かった

ことが、どうもかなり大きな要因だった!
…と、結論が出ました(笑)。本日。


 本日、ケース(小学校低学年/将棋はやっている/どうぶつしょうぎは初めて)に対し、
(練習しながら)勝つための戦略としてどうぶつしょうぎ固有の特性を踏まえ

・個々のコマには、将棋ほどに明確な能力の優劣はない。
 故に個々のコマに必要以上に固執せず、
 比較的あっさり取らせても問題ない。その分は敵から取り返せばいい
・どうぶつしょうぎでは、取って取られて、
 使えるコマを出し惜しみせずバンバン使うといった方向性が求められる

などの指示を与え(彼はそれを即座に採り入れる)、

…そして次の勝負に敗退した自分が居る(笑)


 彼に与えた更なる指示が、「詰める」ための要件であり、

・とりあえず相手の王(ライオン)以外のコマを減らし、守りを引っぺがしていく
・ひとつひとつのコマを王近辺に送ってもダメ。
 複数のコマを周囲に仕込んでから、侵攻して同時に攻める

という指示を与えたところで

「(私は) これが分かってなかったんだ!!」

と自分の方が気づき、内心叫んでいる(笑)


 …そんなこと誰も教えてくれなかったなぁ、当時。
 分からないので当時の私は
「とりあえず王の近辺にコマを送っていけば勝てる!」
と勝手に納得して、せっせと(一個ずつ)送っていたのでした
(と、本日思い出した)。


 というわけで。

どうぶつしょうぎ自体は(課題としての評価は上記した通り)、
「将棋を理解し親しむ」→「将棋へと興味を繋ぐ」という観点では、
物凄くよく出来た教材だと思います。

・コマ運びのルール(将棋の基礎の基礎:コマによって動きが違うことへの理解)
 →コマに動ける方向が描かれているのも、構造化の観点で完璧。
・その他将棋の基礎的なルールの理解
 (コマをとったり取られたり使ったり/歩成りト金とか)の促進と習熟
・そして単純化されたが故に、
 私にしても「詰めの方法論」を理解しやすくなったわけで。


 ここで行われているのは
・構造化(ルールの視覚化と簡素化)
・課題分析(複雑な課題を小分化して提示し、課題への理解を促進させる)
なのですね。


 実際これなら将棋を知らない方(お母さんとか)でも、
ルールブックを見ずしていきなり子どもに付き合えるし、
それでいながらゲームとしては、
「プロの棋士同士でやりあっても充分成立しうる程度」に、
高度な水準でバランスが調整されている。
 子どもとしても(将棋を知っていたとしても)
これをやっているだけで、自動的に将棋に対しても強くなり得るわけで。

 これを考え出した女流棋士さんは..
多分とんでもなく将棋の振興に貢献することになる、のではないでしょうか?

 私が協会(?)の偉いさんなら、
この貢献をもって速攻で会長(?)に推挙しますね。

どうぶつしょうぎ