学校公開

  • 2010/06/29(火) 22:47:02

今日は、某特別支援学校の学校公開に。

比較的近隣にあるとはいえ、
職場とは異なる区にある学校なので、
今回はじめて行ったのですが..

 学校公開では密かに地味にと思って終始行動している私なのですが、
よくよく考えれば学校の先生って転勤とかしているので、
前職でお世話になった先生等と出くわしたり..

*私は「知り合いがいない」と思えば、
 そこそこリラックスして行動しているのですが、
 そこで知っている方に見つかると、かなり身構える..
 「(幼稚園なり学校なりに)出向いた私を見て、身構えるケース」と、
 …精神的には、なんら変わりないわけですよね..


 行った先ではいろいろと考えさせられました。

冒頭に校長先生が述べられていたのですが、

a)現状では開設時に想定されていた二倍!の数の学級/生徒が存在し、
 実際問題としてそこら中の空き教室を、教室に転用している

b)男性の教師が少ない!ので、
 男児の排泄指導でも女性の先生が付かざるを得ない 
 

…。

a)…本来なら校長室?的な場所であろう(と思われる位置関係の)お部屋まで、
 教室と化していました。その他倉庫的なスペースも含め..
 美術室のような教室も教室として使用されているとのことでした。
 
 その弊害なのか? 先生方は授業の度にいろいろな教材なり道具の
出し入れ(それも廊下とかに置かれているのですが..)
にもご苦労されているようにも見受けられました。
そこでもまた!男性教員の少なさの弊害もあったり、な気もしますが。

b)…うちもケースは男児が多いしなぁ..
 自閉症等の発達障害は基本男性優位と思われるし、
 特別支援の現場って、勢い男の子に対応するところが、多い。
  んでもって..「男性教員の絶対数が少ない」のかなぁ?
 これはこの学校のみの現象なのか?都内全域で起きていることなのか?
 (普通に考えれば後者だと思う。
  歪んだ配置が意図的/局地的に起きるでもないだろうし..)
 15年くらい前、私が某養護学校(当時)でボランティアしていた頃は、
 確かに”やたらに元気な男の先生”が、今よりたくさんいた気がします。
 
 療育って..
それに関わるひとの男女比ってどうなっているのかなぁ..
(と、今更思う)
 心理を学ぶのも臨床心理士も、女性多数ですけど。
…やっぱり療育も、ある程度女性で志望する/就く方が多いのでしょうか、ね。

 結局のところ男性職員が少ないと、
福祉でいう「同性介助の原則」が容易に適用できなくなる。
 先に述べられたような排泄指導も勿論ですが、
合宿行事でのお風呂指導などとなると..
それは確かに、困るわけですね。


 …。

 特別支援教育が始まり、そのニーズが「明らかに」高まる中、
地域の特別支援教育の拠点として機能すべき、
特別支援学校に求められる要素もまた一気に増え、
(一時的に)飽和に近い状態、に達したのかもしれませんね。


 とりあえず、現場には現場としてのいろいろなご苦労があるのであるなぁと
思いつつ、そこで汗だくになって懸命に仕事をしている先生方のご様子を見るのは..
悪いものではありませんね。

*それにしても特別支援学校って、先生の絶対数も、多い!
 そりゃまぁ子どもあたりに(普通級はもちろん特別支援級等より)
 多くの人数を配することができる、それが故の特別支援学校なのですから、ねぇ。


 やっぱり仕事は、現場で汗をかいてなんぼ、だよなと思います。

特別支援学校

お泊まり会(3)

  • 2010/06/20(日) 23:57:10

5月19日ー20日にかけ、
クリップ3度目のお泊まり会を実施しました。

まぁ今回も、先月の2回目
http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-208.html
同様に楽しくもあり、それなりに苛立つこともあり..ですかね。

参加児の年齢や構成は、
ここまで実施した中では最も低い設定なので、
これまでだと結構あっさり超えてしまったり、
配慮なしで問題なくクリアできてきたいろいろな事柄に、
意外と手間取ったり..
そういった場面は比較的目につきました。

 活動内容や場所だけでなく、
参加する子どもの違いによっても、
いろいろと起きるものであるなぁと思った次第。

 これに関連して..
クリップなり合宿なり、それぞれそれなりに
クローズドな状況(「指導室状況」とでもいいましょうか)
では普通に実施できる指導内容が、
公共の場ではそのまま実施することが難しかったり、
一般の方の同意やご協力を必要としたり..

 そういったことも含め、
指導なり自身の想いなりを貫徹することも、
公共の場面においては、
結構「難しいのだなぁ」と感じることも、
今回は多かったのだと思います。
 むしろこれまで「比較的」(*皆無ではない)
そういった問題を意識しないで済んでいたことのほうが不思議、
といえたのかもしれません。

「アスレチック(とりあえず天気が保って、それは何よりでした)」
という課題自体も、
…そこで実施しているのは私らだけでは決してないので、
その場で他所の方に迷惑をかける状況も多々あったりで。


 今回の場合は、そんな切り口から始まって、
(例によって)発達障害とか?療育とは?適応とは?人間の幸福とは? 
…ひいては私自身の人間観とか価値観についても、
大いに考える機会になりました。


 何事も経験(と勉強)ですね。
実際にその場に行ってやってみないと分からないことも、
まだまだ世の中にはいろいろと、あるのだなぁと思います。



 帰り道、ボランティアで参加頂いた友人某と
クリップ立ち上げから今に至るあれやこれやについて話す中、
言われた言葉:

 「キミは..”ソリの合わない”ひとが、多いね」

 全くその通りだと思います(笑)
それでいいや!というよりは..
そこからいろいろと、考えないといけませんねぇ。


 私が最近読み込んでいる某精神科医の記述で

「ひとが狂気に至る過程やそれを回避する過程、
 或いは狂気の判定の際において..
 個人の”謙虚さ”というものの有無(や成立/消失)が、
 これに大きく関わってくる印象がある」
といったような文言を目にしました。

 謙虚さ..
その根底には「客観視」という要素は、
当然強く関わってくるでしょうし、それはままぁ..
私のケースの大部分にとって、苦手な領域でもあるのでしょう。

 私は..「他人の謙虚さ」は、大好きですけどね(笑)

切符を買う
アスレチック
帰途

目に見えぬもの

  • 2010/06/18(金) 23:51:21

先日某ケース(PDD傾向)と対していて思ったこと。

検査をとったのですが、
できない課題とできる課題が、ある意味すごく綺麗に、分かれている。
(より正確に言えば、とりながらそういう実感が、ある)
その”できない線”はどこかと思って眺めて見ると..

 …やはりその、「イメージ」の世界に属する処理で思いっきりつまづき、
実物や実際に目にしているものを扱う段階では、
かなり明確かつ自信をもった対応になってきている

*当該児の場合、
 それ以前の段階では、そもそも課題態度なり課題理解なりの問題で、
 実物を扱う課題でも不出来なものはあったのだけど、
 今回の検査結果では、その辺りは均されてきたといえる
  そしてまぁ(今回は田中ビネーVでしたけど)、
 検査ってのはある程度難度が上がると必然的に高度なイメージ処理
 なり言語理解なりを(それが視覚課題であっても!)必要としてくるものであり..


 「イメージ」の世界とは..
要するに実際に目にしていない/扱っていないものに関する世界、
なのでしょう。

 「その場にあるこれは何?」とか、
「これをモデルと同じように積み上げてください」
的な課題にはのれたとしても、
「今日朝何を食べた?」とか「それはどうやって使うの?」
とかには対応できない。

 そんな風な「線」で、
当該児の課題の出来不出来について検討ができたのです。

 それはその児の上記に対する線の引き具合が、
また見事!というか実に綺麗に、
できていて/できていないからこそ!なのですけど。
 そういうケース
(まぁ現実との接触面レベルでは「非常に堅い」と称されるであろう)
は、物事の理解の仕組みなりを検討しようとするにはあたっては、
個人的には凄く有難いケースであるよなぁと思います。

 療育という仕事の観点で言えば、
個人が複雑化したり、純粋な状態からいろいろな要素が混在した状態へ移行することは、
当人の発達なり進歩の証であり、それは職務上喜ばしいものではあるのですが、
一方でその堅さというものは..
ある問題を極めて純粋な視点から検討することができるという点で、
まぁ私のメカニズム理解大好き、な側面を刺激してくれるのだと思います。


 比較の問題で言えば、
私が対応するケースの大部分は、
まぁ大概は「堅いひと」たちなのですが(笑)
その堅さについても個性があるというか、
最高に極端なケースに比べれば!いや全然応用きいてますってというケースも、
いるのであるなぁと、最近は思ったりします。
まぁ比較しているのだから、そういう認識に至るのは当たり前なのですけど。

 そしてその堅さというものに、
おそらくは「言語発達」といったものが
大きく関係しているのだろうなとも思うのです。


 でもまぁこれもよく考えてみれば当たり前なことであり(笑)

 言語なりコミュニケーションという作業自体、
半ば以上”イメージ”に属するものであり、
時に目に見えぬもの、実際に触れたりして扱えないもの、
だったりするわけですからねぇ。

*一方で文字は、この際「言語を視覚化して扱うツール」なのですよね。
 とはいえ最初期の文字理解にあたっては、
 その意味のない形象に無関係な音を繋げるというレベルでの、
 イメージ化の作業はやっぱり必要なわけで..
 ひとによってはその段階で、思いっきりコケてしまったりも、する。


 やっぱり単純に適応させたらんかい!
といった部分を超えて
「もっと知りたい」「もっと分かりたい」
というレベルでは、その種の”綺麗な”すんごく堅いケースは..
有難いなぁと思うし、
少なくとも私には、そういったケースに接している際の独特の愉しみがあるのです。

 本人も親御さんも、大変なのでしょうけど。それはもう。

目に見えないもの