ときにはカウントしないことも

  • 2010/08/28(土) 23:25:11

 基本的に子どもに何か”回数をこなす”系の課題を課すときには、
その回数については概ね逐一、数えさせるようにしていたのです。

 例えば..
きつい身体運動の反復の際にも、
それを数えることによって、先の見通しができるし、
何よりも「数の観念」を実際に入れるには、
それなりに強い経験(この場合には身体への負荷)と連動させたほうが、
数値を実感として理解させることが容易になる。
単純に数概念の学習にも繋がるわけですね。

 勿論、個人の忍耐なり我慢強さなりに耐性をつけることを重視した
課題設定の場合でも、数の見通しは、ないよりはあったほうがよい。

「あと○○回! だからがんばろう!」とか言えるほうがよいのです。
*100回とかの規模のもので、あと10回とか5回くらいを残して
 「どうしよっか? きつそうだからやめよっかーあと10回で100だけどぉ」
 とか、ゼ-ゼーしている子(余程数の感覚がない子を別にすれば、
 この段階で辞めるのはいくらなんでもダメでしょと分かるので、
 やる!に決まっているし、そう言うしかない)
 に声かけするのが、最近の私のブームです


 なのですが、ここしばらくは、その種の数値を
示していかない方がよい場合というのも、あるのかなと考えています。

http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-217.html

 で示したエピソード(最初の方)のお子さんなんか、その典型といえます。
数値を意識することで「数値によって止まって」しまう、
数値で自分の行動を規定してしまう。
それ以上の努力など、想定すらしないタイプだと。

 そこまで極端でなくても、うちのケース連は真っ正直なので?
例えば失敗の許されない連続50回の課題を40回まで成功させたとして
「あと10回!」とか声かけすると、たちまち気が緩み、
面白いように失敗する(*私もそれを分かっていて、声をかける)

 
 そんなことを踏まえながら、最近は敢えて数えない/カウントしない、
終りの見通しを示さないまま課題を実施する場面も設定するようにしています。

 そもそも私はそこで..
例えば100回やって終了という課題があったとして、
「今日は自分で数えないでね、先生が数えているから」と声かけした場合、
子どもが本当に数えないなどということは、あるのだろうか?
と事前には思っていたのです。
 (そう疑問を感じる根拠は..
 「自分だったら、そう言われたとしても絶対数える」から。
 数えていないと、相手がインチキをしている場合に対応できないし..
 …私は本当に!まるっきり子どもの頃からそんな感性で、生きていたのです。
 やっぱり基本的なところで、他者を信じていないのかもしれませんねぇ)

 …で、実際にやってみると..
 皆さん笑ってしまうほど、真っ正直に「数えない」のです。
 で、実施中は物凄く素直に「先生、今何回目ですか?」と尋ねてくる。
 
 というわけで、
「数えない」課題は、ウチでは見事に成立するのでした(笑) 

 さて、数えないことの最大の効果は、
それによって個人が勝手に考えて自分に規定している
「限界」なり思い込みを、比較的あっさりと目覚しい形で打破できる、
という点にあるのでしょう。
 実際そうして、
平素「出来るはずがない」と思っているだけの回数を
軽くこなせる自分=自分が知らなかった自分を、知ることができるわけで。


 ある反復実施系の課題について、
子どもに 最高にがんばって何回できる?と聞き
「60回。それ以上やったら死んじゃう」とか答えてきたら、
じゃぁそれくらいやろっかということで(数えずに)実施して、
終了させたところで「何回くらいやったと思う?」と聞き
「60回(でしょ?先生そう言ってたじゃん、という顔をしている)」
と答えた子どもに、
 120回だよ!!凄いじゃん!
と声かけし、唖然としている子の顔を見るのは..
 …なかなかに、愉しいのです。

 ただこのやり方をとった場合の問題点は、
「子どもとの信頼を損なう」リスクが生じる という点ですかね..
(*まぁ「予定数に10くらい追加して告げない」くらいは結構あるのですが、
 上の対応例はかなり例外に近いものと思います)


 私は職務上、特にケースとの間で

・できないことはさせない
・自分で言ったことはするし、子どもにもさせる
・自分が間違ったことを言ったりしたりしたら、
 直ぐに修正するか謝罪する

 といった事柄については、可能な限り徹底しようとしているヒトなので、
(信頼という観念は、そういったやりとりから生まれるものだと思うので)
 それを損なわせるのは職務上、得ではないし、
 正直私の個人的な信条にも反する。

 上記の場合には、その辺りの問題を子どもに感じさせないために、
実施後は大いに盛り上げて!
褒め倒してうやむやにするといった感じのテクニックは
なんとなく使うのですが(笑)
 
 …まぁ何事にも代償はあるものですね。
 特に有効な手続きとなれば、それに見合う代償も常についてまわるもので。

 その辺りも気にしつつ、
有効であるならば/代償を考慮しても子どもにメリットが見込めるならば、
個人的な信条をやや害してでも!
実施するのがプロだと私は思っています。はい。
(プロには正直さも信頼も必要ですが、
 でもプロに何より求められているのは「有効性」なのだと思います)


 おまけ:

本日のグループ指導で、とある
”全員協力してミスをしないで継続する”
タイプの課題を実施していたのですが(成果は回数で表示される)
回数が嵩み、数えている皆が盛り上がってくると精度が落ちるので、
 
 私の方から
「算用数字で数えると、なんか盛り上がっちゃう!」
「じゃぁ漢数字で、数えよう!そうすると盛り上がらないから」
と(半ば以上冗談のつもりで)子ども達に提案したら

  皆大真面目に遂行し(笑)
 (別に表記するでもないので、
  この際には皆”心の中で漢数字を表示”している)
 …10分ほど経過したところで子どもが隣の子に
 「漢数字で数えないとダメじゃないか!」と指導していたのに
 大いにウケてしまいました..

 反省会でその話を持ち出したらボランティアさんに

 「でも確かに、漢数字で数えると、盛り上がらないと思います」

 と言われました。
 私も勿論そう思ったからこそ提案したのであるけど、
 
 でもねぇ(笑)

カウンターイメージ

場の問題

  • 2010/08/21(土) 23:31:58

 先日相談場面であった、やりとり
 (比較的バレバレな内容で、当人には申し訳ないのですが):


 とある特殊な活動の直後、
その報告を保護者の方に行っていたのですが、
その中でお子さんの、当方/保護者としてもまぁ予想外の
(尚且つ社会的に決して良いとはいえない)
一連の行動について報告した際に、保護者の方が

「(自分は)今まで、(あの子の)何を見てきたのだろうか..」

 的な発言があったのです。

 私としては..
まぁそう言いたくなるお気持ちは分からなくもないのですが、
その言を聞きながら、
結構これって、難しい問題なのだよなと感じていたのでした。


 これはつまり、
ある場面で子どもなりヒトが取った行動が、
「その子の本質的な部分」を引き出したもの、と言えるのか?
ということですね。
(これは何気に、前々回の更新内容:
 http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-222.html とも関わる主題ですね..)
 本質的な問題があるのであれば、そこではじめて
「それを見抜けない保護者の問題」が生じるわけで。

 この問題の根底には

1)「ヒトには”本性”なり”本質的な部分”がある」
2)「それを一時的に取り繕うことはできるけど、
  一方で細かな行動や長期間の観察からどうしても滲み出てしまうその性質を、
  他者に対し隠し通すことは不可能に近い」

 といった..比較的メジャーな人間観があるのだと思います。
 実際この発想は余りに普通なので、
私でも概ねこの発想で日々を送っていると思うのです。
(酔っ払って破廉恥な行為をした知人が居たとすれば、
 その行為から「そいつは破廉恥漢である!」と断じて、
 実は..今もそう信じているとか)

 例えば..
日頃から品行方正に過ごしていたヒトが、
事件(まぁ痴漢とか盗撮とかその系統の方が、この場合話として分かりやすい)
を起こしたときに、多くの人はその原因を
「実行主体の内部に元々あった、本質的な部分に問題があった」
と捉えるわけです。

 でもそれって..その発想を全肯定するのは、実は意外に難しい。

 私は..私の拠って立つ心理学(のとある領域)の観点から、
それはおそらく違う!と思っているし、まぁ思いたいとも感じているのです。

 例えば今回挙げた問題について言えば

・実行主体が、ある種の特殊な条件の整った場所にいた
・実行主体として、今回生じた問題行動には、
 それをを向ける一定の相手が存在していた(必要条件でもあった)
 (○○が居て、でも××はいないなど、
  その場にいる人というの条件は、人の行動を説明する場合には、
 常に大きな要因となっている気がします)

 要するに「条件が特殊」なのです。
”条件が特殊”な際に生じた、ヒトの行動を、
そのまま「その子の本質的な問題から生じた行動」と断じてよい、のでしょうかね?
 ひょっとしたらその子は、今回設定した特殊な条件下でしか、
その問題を生じさせなかったのかもしれないのに。
(実際当方のこれまでに実施してきた活動でも、
 家や学校でも、今回認められた問題行動や、
 その他類する行動は基本的に報告されてこなかった)


 …発達障害という問題を扱う際にも、この件は結構頻繁に問題化されますね。

・ある環境下(まぁ学校とか)で上手く適応していた子が、
 学校が変わったり、クラス(友人)や担任、校長先生等が代わることで、
 いきなり強烈な不適応行動を起こすようになった
・環境における指導側の子どもへの理解がとてもある状況とない状況では、
 子どもの適応水準も大きく変わる
 (*評価主体が指導側である場合には、
 単純に指導者の子どもへの評価が厳しくなっただけで、
 当人の行動は変わっていない、といった事例もあるのかなぁと偶に思うのですが)

 という場合..
それって、子ども当人の本質的な部分の問題なわけ? と疑問を感じるわけです。
(*基本「あらゆる状況で適切に対処できる人間」というものが
 教育や指導の観点では究極的には追及されるのだろうし、
 療育もある程度、それを志向していると言えますけど、
 …でも「あらゆる状況に適応できる人間」なんて..
 実際には居るのでしょうかね?
  言い換えれば「環境が変化したせいで悪くなったヒト」が居た場合、
 それはヒトが悪いのか?環境が悪いのか?..どっちなのでしょうねぇ?)

 …じゃぁ全部環境のせいなのか?
 個人に対し行動の責任を負わせるのは、全て間違いなのか? となると..
 勿論それは違うし、日本の法制度等、現状のシステムでも、
それは基本的に否定されているわけで。
 でもまぁ私は、ヒトがある種の行動を(それがよきにつけ悪しきにつけ)とるにあたり、
その行動を生じさせているのは、その主体の要素だけである! とは..
 少なくとも私のこれまで学んできた、考えてきたことからは、
断じることができない!のです。

 突き詰めれば 「ヒトは自由ではない」と、私は思っています。

 基本的な知能、身体(精神)状態、知識量、環境、周囲にいるヒト、
更に行動をとる当のその場での、知的状態、身体(精神)状態、状況に関する知識量、
その場の具体的な状況、当のその際に周囲にいるヒト..
更にその他様々な状況の中で! 
ヒトは自分の選択可能な行動を選択しているのであり、
それらから完全に自由な状態で!自由な思考/行動をとるなどということは、
現実的に不可能である! と。
(*例えばヒトが何か商品を買ったときでも、それを買ったのは「自由な行動」
 だといえるのか?
 単純に「その店に売っていない商品は買えない」という例を挙げるだけでも、
 私は「そこに自由はない」なぁと思うのですが..) 


 だから
「犯罪を犯したひとに一切責任はない!」
とかいうつもりは勿論ないのですが(笑)

…やっぱり「ヒトは自由ではない」ということなのだと思います。


 ではその、「子どもに問題を生じさせる場」
というものを、職務上どう扱うべきなのか? となると。

 一番ありがちで世間でも起こりがちな展開は、
それこそ前々回の更新で述べたように、
「今現に目の前に目にしている行動を、その子の”真の心”から生じた真なる行動」
だと断じる! という認識の仕方なのでしょう。
 実際そう断じている分には判断者に悩みが生じづらいので、
それはそれで結構なのですけどね(笑)

 …(そのような場面で)実際にすべき判断とは、
これまでに述べてきたように、これを
「比較的特殊な状況下で起きた、比較的特殊な反応」
であると認識する、在り方なのだと思います。

 指導場面も、相談場面も、かなり日常とは離れた”特殊”な環境ですからね(笑)
 自分がそこに居ることを日常と感じてしまうと、つい忘れがちなのですが。


 相談も指導も、ですが、
「子どもが一切問題を起こさない」という状況は、何気に困ります(笑)
まぁプロなので、子どもが平静或いはそれを装っている状況からでも、
ある程度その子の生じさせる問題の性質や程度を見抜くことはできるのですが、
でも私(指導者)の目の前で!実際に何も問題を起こさないと、
その問題を指摘して修正することができなくて困る、のです。
目の前で起きた問題に即座に対処することで!
はじめて”即時強化”の原則が生きるのです。

 一方で..
「キミ、お母さんから聞いたけど先週○○ってことをしたんだって?
 …な、なんていけないことをしたんだ!!」

的なやりとりは、基本
(子どもの能力や知能、発達水準がかなり高い場合は例外としますが)
私は、しません。 
 実際今書いていて
「…本当に滅多にしないな!」と吃驚するほど、しません(笑)

・時間が経っているので、指導による学習効果が期待できない
・時間が経つ間に本人なり周囲の中で事実誤認が進んだ可能性がある
 (指導者に伝わる過程で誤認が更に進む可能性もあり、
 要するに「強度の高い指導に乗せるほどには信用できない」)
・事実はともかく、事実のとり扱い方(認識の仕方)が歪んできた可能性がある

 からです。
上記について「裏をとることができない」場合には、
攻める/責める側もトーンが落ちざるを得ないと思うので..
 以上より、私の中では..
それはかなり「無駄な対応」として処理されているようです。


 じゃぁ指導や相談の場面で有意味な!
指導や観察を行うために、どうするかというと..

 基本的には、子どもに対し(それぞれの子に合った形で)
相応のプレッシャーをかけ、それに応じる形で生じる
「特殊条件下における不適応行動」に、対応するのが基本になるわけです。
(*そのプレッシャーは.. 
 基本的に子どもの側からして一見できなそうな、
 知力や体力、忍耐力を要する課題を設定することによって、
 実践されていきます) 

 故にそれは、子どもの側からすれば実にアンフェアな、展開なのです。
 基本的には「当人にとって一番悪い条件」に追いやられて、
自分だって平素からしているわけでもないような問題行動が引き出され、
それ(自分でも滅多にとらない行動)について、
怒られたり指導が入ったりするわけですから。


 …私は一応、その辺りの理不尽さ/アンフェアさについては把握しつつ、
でも(上述した即時強化、眼前での指導効果は原則として非常に強いので!)
特に指導の場面では、上記方針を淡々と実施していこうと思っています。

 ただ大事なことは..そこで引き出された行動が、
その子の「本質的な部分」と断じないことですね。

 
 まぁ結論としては

・ひとは「その(主体の)反応の在り方」単体で!行動を起こすわけではない!
 行動を起こすには、それに必要な環境や人間関係など、
 「状況」の側に依存している部分が
 (実際には大部分のひとが実感している以上に!)かなり、ある!

・特殊状況下で起こされた行動は、
 その行動が問題とされるなら、
 必要に応じ修正/指導されるべきではあるが、
 だからといってその行動がその子の「本質」とは断じない

・療育の方法論は、基本的には理不尽である!
 (私は実行側がその特殊性を理解してさえいれば、
 それはそれでよいと思っている)

 という感じでしょうか

ば

また、やってしまった..

  • 2010/08/17(火) 23:42:31

 3月に引き続き、腰痛を患ってしまいました..
まぁアレです、ギックリ腰です(←名称が気に入らない)。
急激な動作に伴う腰椎の捻挫であり、捻挫とは”部分的な炎症”ということらしいですね。

 なんだかんだで年に平均2回くらいやっている気が..

 一番最初は..10年くらい前だと思うのですが、
そのときの痛みはとにかく凄まじいもので!
3日くらい家はおろか自室を出ることすら、できませんでした。
用便や着替え等のごく自然な生活動作が物凄い痛みをもたらすので、
その際にはあまりの恐怖から、飲食物の摂取すら可能な限り控える始末で。

 当時の私には、この激痛が何を意味するのかよく分かりませんでしたので(笑)
「この痛みが残りの人生でずぅっと、続く!と誰かが確約してくれるなら、
 今ここで死んだ方がマシだ!」
と本気で考えた程でした。
↑基本「死んだ方がマシ」的発言を非常に忌み嫌う私としては画期的な出来事といえます

 前の職場で唯一! 仕事をお休みした際も、原因はこの腰痛でした。
私にとっては自己都合で仕事を休むことは相当に屈辱だったようで(笑)
今もそれで休んだときに入れなかった初回相談のケースのことを覚えています。
(当時私は全ての初回相談に入っていた)

 
 で、昨日。
もぉなんか慣れていますので..落ち込むことさえありません。
 
 本日、一夜が明けて出勤しようとしたのですが、
睡眠/休息をとったことで痛みが軽減しているかと
今までは思っていたのですが、実はそれは間違いで(笑)
実際には発症してから最初に睡眠をとった直後というのが、
痛みのピークらしいのです。
(「起きていて緊張しているうちは炎症が広がらないが、
 睡眠をとると一気に進行する」という理屈らしい)

 朝、着替えをして
(で、なんのことはない”靴下を履く”とかの動作から生じる痛みに
 …自分でもバカバカしいなぁとか思いつつ、のたうち回る..)
その他の準備をどうにか終えて玄関を一歩出たところで!
「…昨日のうちにケースに連絡入れて、休みにすればよかった」
と、真剣に後悔しました。

 あまりの痛みで、歩行すらできない!
…でもまぁ後でいろいろと調べてみると、
この状態でも一旦歩行姿勢を保持すると、どうにかなるものらしい、です。
実際、私もその後どうにか歩行できましたし。

 でも今回のような程度の痛みの中で出勤したのは初めてで、
それはそれで新鮮だったりで。
 ヒトは苦痛の中ではある程度哲学者になれるようで(笑)
いろいろと考え込んでいたのでした。

・平素はかなりのハイペースと歩幅で歩く私が、
 極めてゆっくりと歩くと、それはそれで結構街の見え方や感じ方、
 認識の仕方が違ったりするのであるなと気づく
 (*まぁそれは”お年寄りの視点”なのでしょう)

・激しい痛みを伴い歩行している状況下では、
 物やヒトとの衝突やそれに伴う苦痛を異常を恐れるが故に、
 周囲の歩行者や自転車等の動きに対し、やたらと敏感になる。
 平素なら自分からよけることで容易に対処できるのだけど、
 それができない(動作が遅い/瞬時に激しい動きをとれない)ため、
 そのような不安や恐怖を与えてくる「相手の心遣いの無さ」に、
 物凄い苛立ちを感じる(笑)
 …動作が遅かったりで、「状況をコントロール」できる余地の少ない方
 (お年寄りなど)が感じる世界は、やはりコレに近いのかもしれません。
 そしてハイペースで歩く平素の私は、むしろ脅威の側だったりするのかも。

・高度の激痛の中では、平素感じている他の身体感覚
 (例えば頭痛や身体各部の軽い痒み等の微弱な不快感)が
 一時的に除去されるというか”問題化しなくなる”ことが分かる。
 要するに痛みや苦痛には、「対応の優先順位」がある、のでしょうね。

 などなど。

・先日もシライと、ある非道徳的な内容を伴うテーマに関して
 (まぁ会話の内容自体は純粋に療育的に意義のある事柄なのですが)
 「(行動分析における)即時強化って、大事
 という話をしていたのですが..
  何かの動作をとった時に、そこで瞬時に激痛が走れば!
 ひとはその動作を極端に恐れ、
 同じ間違い(その動作を繰り返すこと)をしなくなることを
 「瞬時に」「強烈に」学習するものなのですよね。
 それって「即時強化」そのものなのだと思います。
  強烈な苦痛が即時に!与えられれば..
 実際問題、個人なり固体(*学習対象が人間でなく動物の場合)が
 かなり低い知能/発達状態にあったとしても、
 「すべき行動をとらないこと」を学習することは可能であろう!
 と、今回私は、自分の身をもって体感/実感したのでした。
 
 *あくまでも「それが倫理的にどうなのか?」という観点は別にして、の認識です
 
 …本当に刺激が必要なだけ強烈で、しかも即時に与えられるならば、ですけど。


・激痛及びそれをもたらしかねない行動に近づくことすら避けようとする中では、
 その個人の動きは「本当に最小限の量」に留められることになる。
 例えば上述したように用便等を避けようとしたり、
 (歩行そのものが苦痛なので)歩行を必要とする動作を極力減らそうとしたり。
 そうすると..一方で極めて省エネな状態を志向するようになり、
 実際にはこれからする動きを極めて詳細に検討して、
 部屋間の行き来の回数を可能な限り減らそうと検討したりする(笑)

  先日もブログ上で、
ある種のひとたちが「究極の省エネ人間である」という発想について触れましたけど、
その発想の根っこには..やはりこの種の、
何らかの「恐怖」の感情が前提としてあったのではないかと、私は見ているのです。


 ともあれ、どうにか仕事を終えました。
(本当は絶対安静がよいのは、分かっていたのですが..)

 この種の腰痛のピークは翌日には過ぎ、3-4日も過ぎれば
平素のレベルでの活動は(痛みは伴うけど)可能になることは経験上理解しているので、
今は「どうにか明るい気分で8月を終えましょう」という心境です。

*激痛の中では、本日都内が異常な暑さだったことすら..
 瑣末事でした(笑) 
 まぁ別の意味でイヤぁな汗は終始ダラダラかいていましたけど


 勿論腰痛はイヤなのですけど、
痛みのピークを超え、
前日には容易にできなかった動作が可能になったり、
同じ動作でも生じる痛みが軽減していることに気づくのは、
「そこそこ前向きな感覚」といえます。

 何にせよ「治る」という見通しのあるものには、
それなりな希望というものをもって、臨めるものなのです。

 まぁそもそも、その腰痛体質なり
生活習慣をどうにかせねばいけないのですが、
やっぱりデスクワークが長めの仕事なので、
仕事だけで解消しようとしても、どうにかはならないようですね。

腰痛イメージ