幸福と向上と 納得

  • 2010/11/29(月) 23:10:00

 …前々から思っていたことなのですが、
今月中に保護者の方複数と、
以下のようなテーマについて少々話をする機会があったので。

 内容的には
http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-197.html
とも関係する、かもしれません。


 前振り:10数年前、某先輩と私との会話

私:「知的能力が高まることで、ひとは幸福になるものだ」
  と自分はこれまで漠然と考えていた。
  例えば各種能力が上がれば、人生における「行動の選択肢」は増える筈。
  …しかしどうも周囲のひとたちをみると、そうでもない気がする。
  ボランティア先の養護学校
  (*当時)で自分と同年代の卒業生たちと接していても、
  彼らは実に(知的領域での充実を求める自分などよりも)
  幸せそうだったりで。

先:実に明快な話である。
  知的能力を高めるためには、
  基本的に現状を批判的に眺めたり否定したり..
  「現状に留まることを善しとしない」発想を必須とする。
  一方で幸福は、「与えられた現状に満足する」ことで成立する。
  従って現状に満足できない者は、幸福にはなれない。
  その両者が併置することは基本的に、ない。


 私はこれを(例によって)「なんて分かりやすい理屈なのだ!」と感心し..
今に至るわけなのですが。

 まぁ私は、上記の理屈を受け入れた上で..
「頭を使わない人生」→「幸福を素直に追求しよう!」
とは、どうも思わなかったようですが。
(*だからって素直に知的向上を求めたわけでも、決してない)

 
 さて本題。

 「療育」はケースに対し
「治癒」や「”普通”への”復帰”」を求めるものではなく、
現状で社会が求める適応に近づくことを希求するためのツールである、
と私及びクリップは、基本的に考えているのですが。

 その「適応」は..
ある時期までは子どもの能力を高めることを
かなりストレートに希求しつつも、
子ども/ひとの成長・発達のある段階で..
「社会が提示する/与えてくる ものを受け容れる」ことの側に、
軸足を移しつつ、繋がっていくのではないだろうか?
ということに(数年前から現在にかけて、段階的に)思い至ったのでした。

 そうした新しい視点で、様々な機関における、
発達に様々な問題/アンバランスさを抱えるお子さんへの対応を見ると..
時に子どもの能力について「伸びる」「伸ばす!」という発想とは..
何か異なるベクトルからのアプローチが成立しているのでは?
と映ることが、やはりあるのです。

 先日も、ある機関で..
どう考えてもかなり知的能力の高い状況にあるお子さん
(*かつてのケースなので、その知能の概要も把握している)
に対し..ちょっと私には考えられないような水準
(どういう水準なのか、ここでは敢えて述べません)
の課題を延々実施しているのを見て..

 上記発想を得る以前の段階にある私であれば、それを目にして
「け、け、けしからん!」
とでも反応したのかもしれないのですが。
 今の私には、その対応は当該児を
「機関と、そしてその機関が導くであろう将来に”適応させる”ため」の、
適切なアプローチのひとつとして、
機関として選択したものなのでは? とも考えられるのでした。
(実際に私がそう思っているかは別にして)


 子どもは、
特に自閉症/PDD/"いわゆる発達障害”の系統に連なる子どもたちは、
自分で「自律的に」行動の枠組みを設定することが困難であるため、
結果としてその居場所/機関が提示する枠組みに規定される形で、
自身の行動様式を確立させ、それに「適応」していかざるを得ない

 その結果..
…勿論子ども個々人のポテンシャルというものも
発達の大きな要素ではあるのですが、
その子どもが「どこに/どの種類の機関に」行くのか?進むのか?
=その機関が、どういう形で子どもを適応させようとしているのか?
..その機関が子どもの能力をどの程度本気で伸ばそうとしているのか?いないのか?
によっても、その子どもの発達の様相は大きく変わり得る。

 最近はそんなことを考えながら、子どもたちの実際に進んだ先と、
そこでの適応/発達の状況を評価しているのです。


 結局のところ、「伸びる」とか「伸ばす」とか..
単純な「能力の向上」というものが、
適応に必ずしも資するものではないという発想については、
それはある程度事実なのだろうなとは思うのです。
(非常に知的処理能力の高いアスペルガー(/的)なひとが、
 かなり不遇な人生を送ることもままあるように)

 ただそれで..
能力の「向上」というものを放棄し、
世間が提示する「適応」を求めれば、
世間が与えるものを得て、
個人やその関係者/保護者がそれに満足を感じることができれば、
それでよいのだろうか?
 

 …まぁ結論としては、
 私にはまだ、そうは思えないのです。
 当方が上記で「適応」を求めることを明確にしているにも、関わらず。


 大雑把に言えば..
「日々が充実したものである」と感じるための、その重要要素として、私は

「昨日より今日の自分が、今日より明日の自分が」
少しでも何か有意味なことを考え、何がしかの知識や経験を得て、
そうして「少しでも向上する」ことこそ..

 ひとが生きることの重要な理由/価値 足り得る と考えているのです。


 一方で、
発達という「決してひとの思い通りにはならない」
要素と取り組む以上は、対応側にも、保護者にも当人にも、
ある種の「諦め/諦観」という感情が生じるときは、くる。

 いや、こなくてはならない。

 ひとは健常であろうがなかろうが、
永久に発達し続けることはできないし、
向上し続けることにも、多分限界はある。
 それを否定すれば、私が職務上大いに恐れ、強く否定する
「子どもに対し、できない課題を強制する」誤った対応が、生じてしまう。

 そして諦めもまた、
それが「現状を受け容れる」発想である限りは
幸福の要件足り得るもの、なのであろうし。

 それに..
人間皆、最後は○んじゃうわけだしー。
そうであれば個人の発達やら人生の充実やら..
日々の「向上」なんぞに、何の意味があろうというのか!
(↑…まぁこれが諦観の究極、なのでしょうね)


 まぁ.. それは確かにそうなのですけどね(笑)

 その人生にも、
やはり何がしかの意味が欲しい。意味を感じたい。意味を与えたい。

 人生を充実させるための手段の一つとしての、
「向上を希求する」という在り方は、やはりある!あってもよい!
という感じでしょうか、今の私の立ち位置は。


 そして..
当方に通い、多くの時間(とお金と手間と必要以上に課せられる努力)
を費やすことになる保護者の方の多くは、
多分私と同じように、ある程度「与えられた現状に満足」できず、
「適応」は勿論望むこととしても、
「その適応や発達の限界は別にしても、
 日々の..何がしかのスキルが、ほんの少しだけでも向上していくこと」
 
 …少しでも、どんなところでも、
子どもが(そして場合によっては自分自身も)向上する、
「前に進む」ことを求めて..
来ている、のではないかなぁと思いまして。
その思いが(今月辺りに)ある程度証明された、というわけなのでした。
(*それで結局「皆で幸せに背を向けてまっしぐら!」
 じゃないと、いいのですけどねぇ..)


 そうして向上を目指す私が、
 前向きな/健全な/お育ちのおよろしい 人間か? というと、多分違う
(*と思う。
 例えば「親の教育のお陰でそうなったのではない!」とは断言できる)。
 
 私は私なりに堅い人間で、ある種のケースたちのように
発達のある段階で「○○せねばならない!」といった類の行動規制を多々、
持つ羽目になり、そのひとつが..どうもこれだったのかなぁと(笑)
幼少期の読書のどれかが、
(私の生来の性向に比しても)”前向き”過ぎたのかもしれません..


 結局のところ、日々を送る中で常に何か新しいことを得て、
新しい(願わくば有効な)知識や技術を身につけて..
そういう形で、自分が今生きていること、日々を送っていることを、
「納得したい」のかな、と思います。

 「納得したい」というのは..

 結構普通に/日常的に扱われる述語ですが、
ひとが人生というものの中で幸福を意識するにあたり、
実は..物凄く重要な要素なのではないかと、私は思っています。
(*某現在も継続している大河漫画シリーズ第7部(笑)のテーマのひとつが、
 正にこれでして。実際にこの漫画を読むことで、
 私も「納得したい」という自分の要求を、明確に意識できるようになった) 

 納得..
 日々様々なことに納得できていると、いいですねぇ(笑)

 この仕事はとりあえず..
(正直私自身の知識への探求なり知的能力向上の試みは、
 ここ10年くらい大分後退気味なのではあるのですが)
ただケースに関わり、時間をともにし、
保護者の方や他の機関の方と相談を重ねていく
その過程を積み上げるだけでも!
大変に多くの(有意義な)知識や経験、技術をを学ぶことができるし、
そうして自身の日々の向上を(まぁ大概の日は)意識することもできる。

 自分の仕事や立ち位置に..納得することもできる。
 結構なことではありませんか(笑)

 自分がそうである以上は、
私は、当方に関わる/関わらないに関係なく、

 学びたい/経験を得たい/知識や技術を深めたい/
→前に進みたい/向上したい というひとの..

 味方でありたいなぁと、思っています。

 結局のところ、前に進むことで、
それが幸福に繋がるのかは..まだよく分かりませんけどね。


「納豆喰う」イメージ
Excelsior!(Stan Lee)

言語 / 路上

  • 2010/11/23(火) 23:46:39

 家で仕事。

今回は12月の勉強会?「言語発達」と
同じく12月に実施するお泊まり会?で使用する
「人間学講座?路上での振舞い」の資料(パワポ)作成。


・言語..にわかに扱うには余りに巨大すぎる領域です。
 今回はあくまで概観。
 先の勉強会?における認知発達の文法を踏まえ、
 特にコミュニケーション領域の意識の萌芽→言語獲得の流れと、
 言語の基本機能(=伝達/思考/行動調節)についての解説、
 また上記の文脈における言語機能獲得に際し、
 ”発達障害的状況”
 (↑雑な表現だとは承知の上、便利なので最近結構使う)
 で起こりうる問題、躓きの性質と基本的な対処法について検討する、
 という感じで。

 いつも思うことではあるのですが、
 言語獲得に躓いたり、ひとつひとつのスキル獲得/発達に
 ものすごい手間のかかるケースを相手にすると..
  
  言語というものを「学習によって」獲得させようとすると、
 それがどれだけ複雑で困難な作業であるか! 再確認させられます。

 *私たち/定型発達者 は言語の”基礎的な部分”を
  学習によらず、「ただそうあるもの」として受け入れ、
  「慣れ親しむ」だけで済ませることができるのです。

  一方でそうして非常な困難を経て学び取られる言語の過程を
 仔細に観察することで、言語の獲得/学習の過程を
 通常ではありえないほど緻密なレベルで、学ぶこともできる。

 そうして得た知見を..
 「定型発達児者のより効率的な教育」の方向に生かす事ができれば、
 それによって「発達障害」という状況を
 定型発達の側に資するものとして、
 前向きに捉えさせることはできないものだろうか?
 
  等と思わなくもないのですが!
 実際には定型発達児者は、その獲得過程を全く苦にしないどころか、
 しばしばそれを「学んでいる」という自覚すらなしに、
 とんでもない速さで獲得してしまうので..
 フィードバックする必要がなかったり。

 その辺り、考えると少々ほろ苦い気分になります。はい。
 本来「苦労しなくてもいい場面でする苦労」って..
 どこか物悲しいですね。
  私個人としては!その過程からでも、
 得られるものは非常に多いのですけど。


*というわけで、次回の勉強会は12/3(金)11:00-
  テーマは「言語発達 概論」です
  http://clipsince08.web.fc2.com/event.html



 
・「路上での振る舞い」学習の方は..
 これまでのお泊まり会で目にした/直面した 様々な経緯から
 学習/指導の説明がある!と判断された内容を改めてまとめてみたのですが。

 意外にこれも、面白い。

  結局のところ「自身の振る舞いを状況に応じ調整する」
 という一連の作業は、
 自身を取り巻く「状況」への理解の深化に繋がるし、
 礼儀作法も、本質的にはそれを認識する「他者」の感じ方・考え方に触れ
 (認識→意識し)、自分の行動調整(フィードバック)に繋げる過程
 ととることができるので。

 資料中 「どうして”正直に”喋ってはいけないのか?」

 という指導項目を作り、解説していると..
 自分でもその説明の(論理的な)正しさに感心する一方、
 それがある種のひとには直感的に受け入れられないことについても
 自分なりに理解はできてしまう
 そのズレ=(理解できない側としての)本質的なバカバカしさについて、
 苦笑させられたりもするのです。


 いずれにせよ、両者ともある現象を
「ある視点」から眺める、再評価する過程と言えるのだと思います。

 私は物事を..
漫然とただ眺めるよりも、ある視点/観点/価値観のもとに
(多くは批判的に)評価するような在り方を重視します。
その視点を元に見ることで、
物事の性質や仕組みの理解或いはその向上に繋げることもできる。 

 ただ漫然と、
見るともなしに眺めるような過程を経なければ
「見えない」部分も、あるとは承知しているのですが、
それはプロの仕事としては「効率が悪い」ので。

 一方で視点/観点/価値観は時に、
偏見なり評価の歪みにも繋がる可能性があるので..
その辺は扱う側も気をつけないと、いけませんね。


言語
路上 

被害者意識

  • 2010/11/13(土) 23:15:52


先日、帰宅途中の電車内で..
中年(熟年?)の女性が、混んだ車内に入ろうとした男性客に
「押された」と大騒ぎし、
相手もまぁそう言われて普通に怒り、言い合いになりまして。
 周囲の乗客は巻き込まれるのイヤさに皆、静観(概ね女性の剣幕にドン引き)。
女性は「被害者である!」という自分の立場を、
物凄く..普通ではない水準の口調で言い立てるのですが、
実際その言い草や内容、選ぶ言葉のセンスたるや、
大概のヒトがものの5秒もすれば”尋常ではない”類のもの/人物であると
理解する程度の強度、でした。
(故に新規に乗り込みその言い合いを目にした乗客も、
 数瞬で概ね「適切に」状況を理解し、心情的には男性に深ーく同情する)
…それで済めばともかく、
次第に被害の内容が「痴漢の被害である」という内容に変わっていき..


 私が「通勤」という状況において一番恐れているのは、
正にこういった類の方に「引っかかり」、
そんなことで..いろいろなことを台無しにされることなのです。
いや全然冗談でなく、マジで。

 その車内に乗り合わせた一人として
(*車内でもやや遠距離だったし、
 勿論不用意に近づいたり介入などしない)
「自分だったらどうするか?」
「ICレコーダーを常に持っているので(*理由は秘密)
 運良く動転せずにその存在にさえ気づけていれば!
 すぐさま録音を始めよう!」などと対処法を考えていました。

*そんなこんなで、最近長時間の通勤が苦痛で苦痛で..
 こういう事のみならず、他者との不用意な接触が嫌いだし、
 基本的に「他人の無作法」な振る舞いを目にするだけで、
 …結構、精神的に疲労してしまうのです。
  電車等の公共機関は、それだけ「いろいろなひと」
 を乗せてしまうものなので..車通勤を選ぶひとは、
 やっぱりそういうことが嫌いなのかしらんと思ったり。
  私の場合車の運転は運転で、
 余りにそこからイメージされる事柄が怖いので、
 (まぁ運転免許を持っているひとにも、
 相当に無作法だったり○カはいたりするわけで。
 そういうひとが時速数十kmで走る鉄製の凶器を
 制御しているかと想像しても、とても幸せな気分にはなれません。
 携帯弄りながら運転する連中を日に何度か目にするだけで、
 充分乗る気は失せます) 
 そちらを選ぶ気にもなれません。

 上記の女性については..顔等は見ていないのですが、
…まぁ正常な発達的プロフィールを備えていると考えるよりは、
「そうでない」素性の方なのだと思う方が..自然な気がしました
勿論それだけでなく、生育環境も含めいろいろあって、
そうなるのでしょうけど。


 前置きが長いのはいつものことですが。

 ケースの中には、
他者からすれば非常識な/理不尽なレベルでの
強度の被害者意識を(他者に対し)常に抱えている、
といったようなひとがいます。それも結構少なくない割合で。

 勿論このタイプは基本的に他罰傾向が強いわけで、
自分に起こる問題/自分が問題であると感じる事柄については、
それを他者のせい/他者に属するもの/他者の自身への嫌がらせである、
と安易に断ずるような認知スタイルを主としてとっており..

 私は仕事上、この種の必要以上に強い被害者意識については、
比較的問題の根は深い上、
適応の観点では長じて非常に大きな障害になりかねないと思っています。
 それ故に可能な限り早急にこれを見出し、
その誤った/不適応的な認識のパターンを修正する必要があると思っています。

 私の中では対応の優先度として「かなり高い」わけです。

 彼らの自己評価は(時に異常な程)高く、
実際問われて自分が「この世で一番正しい」などと平気で述べたりします。
 (*そういわれて..私も結構真面目に考えたのですが。
  世界を認識し、その情報を処理/判断する唯一の判断者である
  主体=自己は..ひょっとしたら彼らのいう通り、ある意味では
  「この世で一番正しい」のかもしれません、けどね。)

 この状態に対し「療育の観点で」どう対応するかについては、
私としては..これまでもかなり長い時間をかけ考え抜き、
対処の経験を積みあげてきたので、
かなり明確な志向と方法論をもって、これにあたることになります
(具体的な対応法や方法論については、今回ここでは触れません)。
 基本的な方向性としては、
 その誤った認識を見出し、ひとつずつ丹念に
「潰し」ていくといった対応を、行うことになります。

 ただ、この種の異常な被害者意識や他罰感情を、
「適切にそれと理解しない/できない まま」、
いわゆるカウンセリングマインド(同情とか共感とか)なり
その手法でもって不用意に対処することについては、
 その不適応的な認識を知らぬ間に強化し、引き伸ばし
扱いきれなくなる程に拡大させてしまいかねないという観点で..
 
 個人的にはそれは相当に「恐ろしく危険な対応」だと思っています。
 (まぁ何事にも”度”というのはあるもですし..
  上記の発達的な観点も含め適切に対処されていればよいのだとは思いますが)
 
 認識主体が、この誤った/不適応的な認知スタイルに固執している場合には..
おそらくは最終的に本人が!(ある水準では)一番不幸で、
一番苦しむ人生を送る「しかない」と、私は思うのです。

 彼或いは彼女が、或いはその認識が「この世で一番正しい」なら、
その意見に沿わない発想/認識/事実は全て否定され、
或いはそれらは全て認識主体当人への批判や否定、
「攻撃」として認識されるのでしょうから。
必然的に孤独の道を歩まざるを得ない。
(*但し、わけても異常に自己肯定が強いヒトだと、
 ある種のカリスマをまとうことで、追従者を得る事例もなくはないですけど)
 彼或いは彼女の認識する唯一の世界は..
結果として自身に対する絶え間ない批判と攻撃に、満たされることになるのでしょう。
 そんな世界からは、本人の望む「正当な」評価など、
決して得ることはできないし、
それを..「得て当然」と考える本人からすれば、
その事態もまた、耐え難い苦痛となる筈です。

 実際..
この状況に陥り、これを周囲に適切に対処されないままに、
不適応状況を複雑化/拡大させ、挙句に引きこもったり、
暴力沙汰を引き起こすケースは..多いのだと思います。
 私がこれまで多少なりとも関わってきた経緯のある幾つかのケースについても、
正にこれに相当する、誤った認識を世間や親や指導者に対して抱きつつ、
それを修正されることのないままに、多分今も、
幸福とは縁のない日々を送っている、のかもしれません。


 ”適切な水準の他罰”は、
確かに適応上、ひとがある程度健全に生きていくにあたり、
必要なものだと思います。
 自罰傾向を強め、
「世の全ての問題は、自分の至らなさのせい」
と認識したまま生きていくこともまた、幸せとは程遠い状況なのでしょうし。

 しかし..
”発達障害的な状況”は、えてして、
 ひとの認識のスタイルを極端な一方に追いやりがちなものであり、
しかも他罰(=とりあえず自分を否定せず/変えることもなくて済む)は、
自罰よりも遥かに「楽」な選択肢と映る筈なので。
(少なくとも最初は、そう見える。
 しかし一度他罰に嵌れば..上記したようにその当人については、
 幸せなど決して訪れない未来しか、想定できなくなる)


 私が比較的最近の更新で、
「謙虚さが重要だ」と述べたのも、

 http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-232.html 等

 正にこの、他罰/被害者意識の強化/拡大が、
当人や周囲のひとの福祉に強く逆行するもの、
と考えるからこそ、なのです。

 そしてその..
おそらくは「安易な」思考に逃げようとする自分を抑え、
物事に対する自身の責任意識や、
それに対処する自身の能力を「適切に」認識し判断する資質こそ、
「適応に繋がる謙虚さ」なのだと思うのです。
 
被球イメージ