とにかく、圧倒的な

  • 2011/05/29(日) 16:52:53

 ここしばらく考えているテーマ(のひとつ):

 直接の発端は以前にも述べた、
某ケースの国語の勉強に付き合っていたとき。
「文中の空欄に選択肢中から適切な接続詞を当てはめる」
まぁお定まりの課題、の対処法について説明するにあたって、

…勿論この場合、
「前の文章と後の文書の意味的な繋がりや関連性について検討させる」
というのが教科書的に正しい方式だとは思うし、
私もとりあえずそうは教えるのだけど、
一方で
「選択肢の接続詞をひとつひとつ空欄に入れて読み上げてみて、
 それで”しっくりくる”のが正答」なんだよとも、説明をする。
とはいえそれで教わる側としては、
どれが入れて”しっくりくる”のだか全然、見通しがついていない。

 そんな場面で..
「とにかく圧倒的な量の文章を、ただ読む」ことで、
文書の形態やパターンを把握しきることなしに、
上記のアドバイスは機能しないのだな、
ということを思い知ったのでした。
 私自身がそれをある水準までなし得ている
(多分中学生以降、こういった思考法で対処していた)ことで、
自分の中でそれをごく自然なこととして理解できる一方で、
それがある経験量までに留まっている他者にとっては、
それはきっと..当人の理解を超えた発想なのであろうな、と。


 個人的な経験..
仕事もそうだし、趣味に際してのある種の作業についても、
やはり「経験の総量」というものが結果に示す、
影響の大きさというものは、感じることができる。
 とにかくどれだけの時間それについて直接向き合い、
頭を使い、手や身体を使い、失敗して!(これは重要)
その都度それをフォローし..
そういった諸々の時間を、
課題に対して、どれだけ圧倒的な量の経験をこなしてきたか!
ということの意味の大きさを、最近特に感じます。

*さて”若い頃”の私は.. 年齢相応に? 
 他者の、その辺りの経験知というものを、
 確実に軽視していた経緯があります。
 適切な処理機能(平たく言えば”優れた知性”)さえあれば、
 最低限の経験や知識をベースにして、
 その種の”経験から得られるスキル”なんぞ軽く凌駕できるであろうと。
 …なんつーか、傲慢そのものですよねぇ。 
 
 
 その他のケースも見ていても、
同じような事柄は、日々起こっている。
 彼らは文法(例えば助詞の扱いとか)やそのバリエーション的使用、
発音等の様々な高次的な機能を操るにあたり..
 要するに
「それを操るに必要なだけの(実地と思考の双方で)経験量を積んでいない」
といえる。
ある意味で発達障害という状況で生じる様々な問題というもの
殆ど全てこの言葉で説明されないわけでも、ない(と私は思っている)

 この場合、単に周囲の..
定型発達者と同じ量の経験を積めばよいのでは、ない。
それで済めば世話はないわけで。
 発達障害状況では概して、学習に際し
応用力、思考の般化、試行の切り替え等の各場面で、
…「とにかくやたらと学習の効率が悪い」ものであり、
その状況下では情報処理形態において普通の、
あるいは相対的に”要領のよい”他者に比べ、

…「とにかくとんでもない量」の反復学習をこなす必要が、おそらくはある。
たとえばある課題を問題なくこなせるようになるために必要な試行が
定型発達者の場合10回であると仮定する課題について、
ある「とんでもなく不器用な」個性がこれに相対すると、
それをものにするのに、
100回とか1000回とか..10000回とかの
とにかく莫大な量の試行を、必要とする。

 これは..
この側面だけを見れば、
ひどくアンフェアなことだとは私だって思うのだけど、
しかし私に言わせれば、
持って生まれた資質というものも、
生まれた環境なり境遇なりと同様に、
「他者と比較して公平なものなど何一つない」
のが人生であるのでして。
また、「全てにおいて要領のよい個性」というものも多分存在せず、
ある種のことを容易にこなすひとは、
一方のどこかで効率の悪さや要領の悪さを自覚しているもの..
ではないかと、私は思う。
まぁまったくもってお気楽で、そんなことを自覚していない個性、
というものは、あるのかもしれないけど。

 効率が悪い/能力が低い、不公平である
→だからやらなくてよい、ではない とは思うのです。
 これについての同僚の誰かさんの言い分をそのまま使えば、

 いくら太る遺伝的資質を持っているからって、
そのまま何もせず太るのを肯定するのが正しいこととも言えないし、
(*一応ここでは、便宜的に「太る=宜しくないこと」
 のメタファーとして定義しています)
その体質を受けてなお(非常な努力の末に)太らないひとだっている

 という感じでしょうか。


 とにかく圧倒的な量の情報入力を!

というのが、結局今の私の指導上の課題のひとつなのです。
それを少しでも子どもに負担をかけずに効率化して行うためには..
少しでも早く問題を見出し、対応を開始し、
少しでも長い時間、継続的に子どもと関わることが、
どうしても重要になる。
それで..焦ることも多々、ある。

 …誰にとっても大変だし、
時に理不尽さを感じることでもあるのですが、
でも私の立場からすれば
「だからそれで(そのスキル習得を)放棄してよいものではない」のです。
であれば、それをいつ開始することになっても、
とりあえず常に前に進んでいなければならない。
とは思います。

 勿論指導者の立場としては、
その”量”というものに対処しつつ、
その学習が児にとって、少しでも効率よく、
少しでも高い動機をもって行えるようにするための、
配慮や試行錯誤というものも、欠かすべきではないと思っています。


 そういう発想に至るようになったのは、
やはりクリップ開設以後、
子どもに対し指導的に関わる機会が生じてからでした。
相談/発達チェックの枠の中で課題設定をする限りにおいては、
特定の子どもに同じ課題をひたすら反復的に実施する、
という対処自体、そもそも発想すらできなかった、のでした。

 
 …一方で、ある特定の事柄について、
定型発達者のそれを超えて異常なまでに素早く効率的に!
新たな事物を学び終えてしまう個性、というものも、確かにある。
上記の例で言えば定型発達者が習得に100回の試行を必要とするのに、
ある個人がそれを1度の経験で獲得してしまったら..
まぁそれを、ひとは(その領域における)天才、というのでしょうね。

 
 上記した話に関連して、
私の好きな某作家の意見(の大意):

…しかし天才には「感動」がない。
感動する間もなくスキルを習得してしまう。
一方で苦労してスキルを身に付けた凡人には、
それを身に付けたときの「感動」が、ある。
 その差が、時に天才と凡才の最終到達地点を分けることも、ある。
天才が時に、「努力した凡才」に劣るときも、ある。

…まぁ、これだけ読めば、
やや前向きになれるお話ではありますね。
実際には上記意見はその後

 しかし天才の中に稀に、「感動できる天才」もいる

と身も蓋もないお話に続くのですが(笑)

 更にこれに付け加えて私が思うに、
「努力して身につけても、感動しない凡才」てものも、
世の中にはかなり一杯、転がっている気がする..
(私はこの..やり遂げたことの感動、というのは
 指導上でもとても大事に扱うべき要素だと思っている)


 …自分では「努力」の話をしていたつもりなのに、
気がつけば「才能」の話になっちゃっている気が..

…圧倒的じゃないか

自閉症

  • 2011/05/16(月) 23:01:20

 本日は、一日使って
5/21の勉強会〕僂了駑舛鮑鄒していました。

昨年度は月1回の頻度で実施していた勉強会ですが、
今年度は諸般の事情で隔月実施になりました。
5/21はその初回。

http://clipsince08.web.fc2.com/event.html

 やっぱり楽です(笑) 準備が。
毎月実施だと、必死で文献を読んでパワポで資料作って..
それで実施すると即座に次の準備を始めてぇ、
という展開が続いたのですが、
今回についてはかなり余裕をもって、
必要な文献に納得いくだけ目を通しつつ、
資料をまとめることができました。

 今回は特に、ウィング/フリス等の文献を自分なりに読み込んで、
自閉症の定義と原因論、状態像
辺りの理解を深めるまで、を中心にして、資料をまとめてみました。
 
 自閉症は広く捉えると余りに巨大な領域を対象にしなければならないので。
今回はこんなところです。


 自閉症..

 個人的には「クリップにおける私の」
私にとって究極の、といってもよいお題です。

 自閉症のことなら、
ほんとに幾らでも考え続けることができます。
(実際とある何泊かの旅行中、
 ひたっすら自閉症について考え続けたことも、ある)
 原因論の検討も対処技法も課題の検討も、
ヘタに考え出すと興奮して眠れなくなって
挙句に翌日の業務に支障が出るほどのもの、です。
 まぁそれだけ、動機づけなり自己関与率?
とでもいうべきものが、高い。 思い入れが、ある。

 そして自閉症/PDD/自閉傾向ともなれば、
クリップで対応している/してきたケースの..
ざっと7-8割について、現実に直面する問題そのもの、
でもあるわけで。


 更に..
今更言うまでもないことなれど、
私にとって「自閉症とは?」と考えることは..
 …殆どそのまま、「人間とは?」「幸福とは?」「自分とは?」
と考えることに等しいこと、なのであり。
それだけ自分自身と強く結び付き、
切り離すことのできない事象である、といえるのです。


 まぁ、あれです。
そういった個人にとっての究極的な事柄を、
趣味のみならずお金を稼ぐ仕事の場面でも、
ひたすら考え続けることが、できる!
実際に現場で関わることを続けることができる。

 というだけで、やっぱり私は..

 幸せな人間なのかなぁ、と思うのです。

ま、ひとには、世の中には、いろいろな幸せの指標がありますけど、ね。


 …自閉症について考えることは、楽しい。

 まぁケースの保護者の方から見れば..
その様子が殆ど..不謹慎とすら映るのではと心配になるほどに。
(そうして得た知見や考察を、余りに嬉しそうに語る私を見て、
 不審を抱くケースもいる/いた のだろう、なぁ..)


勉強会資料

QUORIDOR

  • 2011/05/10(火) 23:47:41

…連休中に某所で実施していた玩具セールで、購入しました。
コリドール、”回廊”という意味です。

 このゲームの概要は..
ちょっと見で分かりづらいとは思うのですが、
自身の行動選択の際に

・自分のコマを動かす
か、
・壁を作って相手の動きを邪魔する
のどちらかを選択する点が、ポイントなのかなと思います。

 少々お高かったのですが
(ここしばらくの出費で、
 私の金銭感覚が麻痺していたのかもしれません)..

 現在は小学校高学年ケースを中心に実施していますが、
なかなか面白い!

 というか、私がコロコロ負ける(笑)

 課題としては、大人の側がゲームの勘所を把握できていて、
大人の側で課題の困難度に強弱をつけられる状況の方が、
良い/正しい筈なのですが。

 現状では子どもの側が、
本気で負けて口惜しがる当方を見てすんごく嬉しそうな顔をする(笑)
という状況も、なかなかに楽しいもので。

・「(君は)すんごく意地悪だね!
  このゲームの場合はそれでいいのだけど」
 と感想を述べると、ケース某は会心の笑みを浮かべた。ニンマリと

・ 他のケース:相手のコマの動きを阻害するために壁を設置したら
 「…しかえし」といって壁を置かれた

 …どうも個人の有する知性とは必ずしも関係なく?
あるタイプの子とは見事に互角の戦いができ、
一方であるタイプの子とは、まだまだ勝負にならない。
 両者を分けるのは、現状では
ゲーム状況における「攻撃性の適切な発露」のような気がします。

 私はゲーム等を通じて
(*その他スポーツでも料理でも演劇でも、何でもいいですけど)
 個人の攻撃性を適切に発散するような仕組みについては、
誰しも持っていてよい、と考えています。

 というか、そういう仕組みを
恒常的に持たない/機能させる余地のない状況では..
 その個人がどの領域に在っても..
心理的には「厳しい」ことになるだろうな、と思うので。
(当然ながらその攻撃性が元来高いタイプの個人については、
それを処理するシステムも更に高度に機能し続けている必要がある)

 そもそも
「ゲームという形で(存在しなかった)
 攻撃性が引き出されて、困る」
的な言い方も、あるのかもしれませんけど、
↑については、個人的には
「攻撃性を有しない個人は(原則として)存在しない」
という立場です。はい。私は見たことがない。

 であるなら、それが直接的な攻撃行動(或いは自己破壊)
に直結させないようにするための、
何らかの処理経路/手段は、
ひとには在った方がよいのだと思います。


 …まぁ何だかんだ言っても
「互角」ではやっぱりいかん!ので、
なるべく早い目に有効な戦術を会得しないといけませんねぇ。


追記:その後の実施を経て、
   このゲームに限れば基本となる2名実施のみならず、
   3名或いは4名での実施でも、かなり面白い!ことが判明しました。

コリドール