ちいさな哲学者たち

  • 2011/07/21(木) 23:08:33

 http://tetsugaku-movie.com/index.html

 観てきました。評判がよいので。

 4-5歳になる時期の幼稚園児の
”哲学”的な議論を大人が方向付けし、
その過程を外観するというのは..

 発想自体単純に面白いと思ったし、
私の.. 比較的最近の仕事上の興味の対象(=道徳観の形成と発達)
にもひっかかるもの、なのでした。

 まぁ..
この作品については
「観てみないと分からないもの」だとは思うし、
「…やっぱフランスだよなぁこのテのものは」
という気もするのですけど。


・予め予想はしていたことですが、
 下手に「適応」して、
 或いはその他個人が属する世界の価値観や行動スタイルを受け入れた形で、
 発想や思考がある程度固定化/硬直化しちゃっている大人よりも、
 その種の観念にしばられない子どものほうが、
 より純粋に哲学的な問題を扱うことができる、のですよねぇ。
  私はそういった、よりプリミティブな形態での
 子ども(まぁ今回は定型発達児)の思考の在り方を見たかったのであり。


・それにしても..
 哲学というものを扱おうとすると
 やっぱり!表象(イメージ)機能が、
 そのとっかかりの部分で、どうしても重要になってくる。
 当たり前なのだけど、哲学的思考には、
 想像力(仮定状況について思考できる機能)は必須であり、
 とりあえず「実際に目の前にあるものしか扱えない」程度の、
 (表象機能の)発達段階では..
 今回示されているような議論には
 到底対応できないわな、と思いました。
 (実際子どもたちの中には、
 明らかに議論に対応できている子がいる一方で、
 そうではない子たちも一定数いた、ようなのでした。
 それには後述するような環境の要因も大きいのだろうけど)
 
・当の指導者は(作品序盤に仄めかされているように)、
 「幼稚園教諭に必要か?」
 と周囲に一瞬思われる程の”修士号持ち”の先生
 (個人的にその指導のスタイルは、そんなに..好みではない)
 なのだけど。
  幼稚園児への哲学講座となると、
 どうしても問題になるのは、
 「○○が正しい」「△△って発想は、よくない」
 って部分について、指導者として
 最終的にはどうしてもある程度は持っていかざるを得ない
 そういったところなのでした。
 
 道徳観念を全く無視したところにある、
 真に純粋な哲学的思考を扱わせるのは、
 やっぱりまぁ「教育」の現場としての限界があるんだよなぁ、と。
 
  私が近年重点的に検討しているのは、
 その種の..「善悪の観点を超えたところにある」思考、なのだけど。

*仕事上の私は
「それなりに」常識的だし道徳的に振る舞う(と思う)のだけど、
 そうではない私は..
 「…なぜ○○をやってはいけないのだろうか?」
 といった感じで、世の常識とされる様々な事柄にについて、
 かなり根本的な疑問を持ち続けている所も、
 今もって多かったりするのです。


・とはいえ1年間、週1回の指導セッションを繰り返す中での、
 子どもたちの哲学的素養の発展振りは、凄まじいものであり。
 最初は全然議論や指導者からの問いかけにノレなかったり、
 せいぜい親の言い分をそのまま述べていたような子たちが
 どんどん..正に哲学的な思考形態に対応し、それにハマっていく

*それで子どもたちが「良い子になった」とか
 「問題行動が減った!」とかいった、
 イヤらしい(と私は思う)視点を一切示さないのは、
 この作品の真に素晴らしい点だと思う。
  哲学的思考というものは..
 単純にひとを「よく」或いは「適応的に」するものではないと、
 個人的には思っているので。
 
  とりあえずその種の思考が「在る」
 ということを大人が身をもって示してやり、
 子どもたちのその種の思考それ自体を認めることは、
 基本的に大事なことなのだと思います。
  なおかつ幼稚園のみならず、日常的にその種の思考や、
 そこから派生する子どもからの疑問に
 きちんと応じる保護者の姿勢とか根気とか..
 大人がそうして、子どもに適切な
 「思考に適した環境」というものを
 いかにして与えうるか、ということは、
 この種の素養の発達に際して、
 決定的に大事なことであるということも、
 この映画を観て、大いに理解できたのでした。
  まぁ大人が子どもに「哲学的な」環境を与えようとしたら、
 やっぱり時間や体力にゆとりをもてないといけないし、
 そうするとそれを保証するお金もそこそこ必要だったり..
 するのかもしれませんけどねぇ。


・つくづく思うのは、日本ではこの種の..
 「哲学」に関連するような教育というものは、
 そもそも基本的に行われないし、
 その機会も少なければ水準も低い、ということ。

  この種の映画を観にくる以上、
 幼稚園辺りを中心に「教育関係者」って感じの観客は多いわけで。
 帰りがけにそんな園長?的な方が、同行者に

 「(この試みは素晴らしいけど)でも頭でっかちなだけの子もねぇ」

 と述べており。

 個人的には
(*”まぁ私は多分頭でっかち”という自覚から生じた反感も
 あるのだろうけど)

 「教育機関の施設長ランクのヒトが、この映画を観て!
  その程度の感想しか..出てこないわけ?


 と密かに愕然としたものでした。

  総じて国民性としての「哲学のなさ」というものは..
 それ自体が日本人の国民性なのでは?と言いたくなるほどで。

  要するにいい大人が、自分独自の発想とか、
 人生における様々な”重要案件”について、
 「自分の」意見や考え、それらを統合する”思考のスタイル”を..

 持っちゃぁいないんだよねぇ実際。
 (勿論私にしても、
  思考してなかったり意見を持っていない事柄は沢山あるし) 
 そういったスタイルを持たなくても、別に困りもしないし、
 実のところその種の素養を持っているヒトこそ、
 下手をすると生きづらかったりすることもあるようで..
 
 そのような「環境」においては..
 哲学なんてーものを持たない方が、
 適応にはプラスだったりするのでは?とすら思えます。

 そもそも大人の側に哲学的素養なり経験なんてものが無いのだとしたら、
 その意義や重要性もをを子どもに伝える意義も、見出だせないであろうし。
 それを子どもに教えるなど、
 能力的にも技術的にもどだい無理な話なわけで。

 …これがかなり皮肉なもの言いであることは、自覚していますけど。

 
 私は..
自分がこういう仕事をしているからか?
こういう立場(笑)に居るからなのか?

 様々な事柄について「自分の」意見をもつこと、
物事に基本的に疑問を感じつつそれを扱うこと、
自分でその疑問に向き合うための思考形態を作ること..

 大事だと思うのですけどね。
 
 世の中が平和で、満ち足りていて、
政府なり行政機関なり個人の属する企業なりが、
市民の側にとって信頼に足るものである時代には、
(*まぁそんな時代があったのかどうか、知りませんけど)
或いはその種の”疑いに根差す”
個人個人の独自な思考などというものは、
不要だったりするのかもしれないけど
(まぁそれを別にしても、上記したように
 日本には”頭でっかちより従順”
 の方が好まれる国民性ってのは、今も普通にあると思う)。

 でも今はこういう時代だし、
ひとがひとりひとりで困難に立ち向かわなければならないときは、
おそらくは当然のように、誰にとっても巡ってくる。
そのとき..哲学的思考というものは、
やはりひとの生にとって意味をもつのではないか?とは思うのです。

 でもこの種の哲学指導?って、
まぁ仕事的にはなかなか導入しづらい(笑)
*単純に「(上記したように)適応上の効果が見えづらい」上、
 短期的には児の適応の水準を下げる可能性すらあるので。
 (と、映画を観ながら私は思っていた)


 あとはまぁ単純に哲学の意義として..
「物事について深く考える」ことは、
人生(のある側面)を豊かにしてくれるのではないかな? と。

キリアちゃん超かわいい

お泊まり会

  • 2011/07/17(日) 23:27:43

6月に続き、今月もお泊まり会を実施しました。

 今回はクリップにして初の、女児中心の構成での実施。

 女児ケースの絶対数が常に少ない中、
女児中心の構成でお泊まり会ができる!

・それなりに年齢と能力を備えた女児が一定数居る
・女児に対応できる同性の職員が居る

といった条件を踏まえ、日程を調整して、
開設4年目にしてようやく今回の実現に至ったわけで。
個人的にはそれだけで結構感無量だったり、します。


 で、私はメインとなる女児チームの対応を
クリップ残留組に任せ、
初日夜は、今回ひとり参加した男児を自宅に連れ込み、
楽しくやっていたのでした。
(まぁ先日の欠勤の件と同じく、
 そういった感じで仕事を..
 "他人に任せる喜び"というやつですかね)
 お泊まり会なのに自宅で寝れる!
ということで(いつもは殆ど眠れないのですが)
気楽に構えていたものの、
…やっぱり全然眠れなかった。
同行者は”ベットの上では野獣”系だったようで。
一晩中振り回され、ヘロヘロのまま朝を迎えました。
世の中そうそうよい話ばかりじゃないですね。


 二日目の活動は..
一応参加児たちのやり取りの中で、
決まった行き先(まぁ選択肢はこちらで用意している)が
私の家の裏手にある、山の中の動物公園で(笑)
 おかげで移動経路も単純で、移動距離自体も少なく。
指導側も参加児5名に対し
二日目は職員2名ボランティア2名とかなり充実していたこともあり
気を楽にして楽しむことができる場面が多かったように思います。
(動物園という所も、偶に行く分には楽しいところですし、ね。)

 実際その公園自体、予想以上によい場所でした。
まぁ私は散歩はしないのですが(笑)
近くによい場所を見つけられて、満足です。

 とはいえとにかく、暑かった!
日差しの強い日でした。
昨年も8月にお泊まり会を実施していますが、
http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-222.html
その際は施設見学系だったので..
 今回も園内に日差しを遮る木々が沢山あることは確認していたのですが、
…やっぱり日に焼けてしまいましたね、かなり。
 参加児たちも
(今回はお金を使う場面の少ない構成なので、比較的余裕がある)
自分たちのお金でジュースやアイスを買い、
水分補給を繰り返し行っていました。

 
 それにしてもやっぱり、
男児と女児は基本的なノリが結構!
違うということが、今回の活動で改めて確認できました。

・食事が平和(笑) 基本上品だし..
・移動時も平和
・表立った争いが少ない/激しくない(暗闘はあるけど)
・基本的に激しい動き、突発的で予想外の展開が少ない
→そんなこんなで、指導側として心理的余裕をもって対処できる

そして
・とにかく行動がゆっくり!

  移動もそうだけど、お風呂も身仕度も..

 お風呂については私はその場にいなかったのでアレですが、
報告を聞くと相当に長時間の..やりとりだったようで。

 その他の私が不在の間のクリップでの動きについては、
ビデオカメラを設置していたので、
終了後にそれ(しめて3時間分..)を確認できていたのですが、
朝の身支度なんざ..
もぉ殴りつけたくなるような悠長さで(私の基準としては)。

 …結論としては、
「やっぱり男はいいなぁ」と思ったのでした。私は。
何事も(特にすべき事柄が明確にされているときは)
パッパとこなしてさっさと次に行きたいのです。私は。


 …その他お泊まり会への想いなどは直近の記録:
http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-262.html
と大差ないので、その辺りを参照のこと。

 まぁそうした女児特有のゆったり感自体は、
私も大いに楽しんだのでした。

 次の実施は、8月。
なんとなく基本的に保守的な構成と内容で
実施しようと思っていたのですが、
今回の活動中にもいろいろと考えるところもあり、
…(まだ未定ですが)
これからそれなりに新しい要素を検討しようかな、
という気分になっています。

家の近所なのだけど

ペンギン舎

帰路

海洋天堂

  • 2011/07/13(水) 23:55:58

http://kaiyoutendo.com/

観て来ました。

 予告編を観てその概要を把握した辺りから
「これは..ヤバい!」(いろんな意味で)と感じ、
まぁ..かなり感情を動かされるだろうなとの予測の下に、
結局は「ジェット・リーがこういう役で!」という部分で負けて
(彼はなんというか実に..
 ”世界的にみても最高峰の実直顔”だと思う)観ました。

 勿論終盤は泣きましたけどね。えぇ。
仕事的にもそうでなくても、
これで泣けないヒトには..流石の私でもどうも、なれないようです。はい。


 基本的にこの作品は「自閉症の映画」というよりは、
「(モチーフとして)自閉症を扱った映画」なのだと思います
(決して悪い意味でなく。
 芸術作品としても人の姿を扱った映画としても、水準が高いのは確か)。
なので作中で扱われているものも、自閉症の子育ての真実というよりは、
より大きな枠の中で描かれる「親子の姿」なのだと思いつつ、観終えました。
 
 まぁそれはそれとして、
作中で「施設にひきとって面倒を見て欲しい」
というスタンスにある息子が、
「いろいろなところで何かをしでかす」ことで、
そういった期待が叶わなくなったり、
今まで得られた特別待遇などが、
認められない/許容されなく なっていくのでは?
といったような親の不安の在り方というものは、
おそらくは自閉症児の親の心情として
かなりリアルなのだろうなと思ったり。

 ただまぁ「映画なので」
基本的な展開は”ファンタジー”に属するものなのだと思います
あー終盤の展開は特に。
(…そもそもお父さんの在り方自体がファンタジー的というか..
 勿論お父さんの中に、常識を超えた(まぁ発達的な
 ”何か”を想定すれば、それらの行為も説明できなくはないのだけど)

 なんだかんだで勿論「お父さんは大変」なのだけど、
職場にも近所にも学校にも施設にも!
どこにでもその努力をしっかりと認めてくれて、
あり得ないくらいきちんと彼らを支えてくれる
「味方」が、沢山いたりするわけで。

 で、私はそれを見て、
現実って..普通そんなによくできてねーよなぁと思ったりしているのです。



 個人的にこの作品を観て「考え込んだ」ことは、以下の二つ

・親から子に対して行われる「指導的関わり」について:
 結局まぁお父さんは..とある事情から、
 息子に対しいろいろな指導を開始するわけですが..

 これは勿論、映画的な事情(=お父さんの事情)
 によって極端な形で表現されているものではあるものの、
 突き詰めれば全ての親が、
 子ども(当人が自閉症であるか否かも関係なく)に対して、
 どう「指導すべきを指導してくか」、
 という話と..本筋のところでは一緒なのだと思います。
 (勿論「子どもが自閉症」だったり発達障害だと..
  普通のひとの枠の中で期待できることを期待できない場合もある、
  という点で、通常の子育てと異なってくる部分もあるわけですが)

 親であれば誰しも、子どもに対していろいろなことを望み、
 或いは望まないであろう事柄を、沢山持っている。
  そして最終的に(まぁ普通は)は、
 親は子どもより先にその人生を終え、
 その先の子どもの生き方を「見守ってやる」ことはできない。
 
 そうであるならば、やはりひとは、親は..
 本来人生のある局面(例えば「子どもが子どもである」時期とか)
 に限ったことではなく、
 子どもが子どもでなくなった後も、
 人生のあらゆる側面で!
 子どもに対し、
 自分が望む事柄、望まない事柄について明確に示し、
 やりとりを重ね..
 そういった形での親としての「指導を」続けることが..
 ひととしての宿命なのではないだろうか?

  そんなことを考えながら、観ていました。


「まず私たちが果たす役割を、現実的に考える必要があります。
 子どもが大人になったときに社会で生きていけるように、
 基本的なスキルを身につけてやる責任は、おもに親にあります。
 過酷に聞こえるかもしれませんが、子どもが食事の支度や洗濯、
 お金や健康の管理などの基本的な事柄をできない大人になっても、
 弁解の余地はありません。
  誰でも人生で選択をします。
 自閉症/アスペルガー症候群の子どもに
 実用的なスキルを学ばせるという選択は、
 親なら誰でも、最優先するべきです」
(テンプル・グランディン.2010「自閉症感覚」NHK出版 p274)
 
 ↑今年度の勉強会冒頭あたりでひっぱってきた文言です。
 グランディン女史..流石にアスペルガーだけのことはあり(笑)
 仰ることに全く、容赦とか..
 親という立場への配慮というものが欠けているのですが、
 それだけに、うんざりするほど、正しい。

  指導には..
 確かにそれに適した時期とか、その時期ごとの課題とか、
 いろいろとあるのだけど、
 ただ、指導に終わりは、ない。
 自分の行える指導がいつ急に終わることになっても、
 そこで後悔しないためにも、
 指導は常に継続的に行われなければならない。

  そういったことを、この映画の「極端な例」
 から、考えることができたのでした。


・親の子どもに対して抱く気持ちや想い、
 子どもにこうあって欲しいというような期待、
 そういったものは..
 「自閉症の子どもにも、通じるのか?」

 これを突き詰めれば、自閉症どうこうというよりも、
 「親の想いというものは、子どもにきちんと届くものなのか?」 

 更に言えば、
「ひとがひとに対して抱く様々な想いは、相手に伝わるのか/届くのか?」

 この作品を観て、改めて考え込みました。

 これは..
 個人的には人間の物凄く根源的な部分に関わる、
 問いかけだと思うのです。

 作中では(*ファンタジーなので)、
 お父さんの息子への想いは最終的に「届く」のだけど..


  私は以前にも述べたように

 「ひとは基本的に、分かり合えない」

 というスタンスで日々を送り、仕事をしているのです。はい。

  というか..

 「絶対的に分かり合える」
 「持続的に分かり合える」
 というようなひととひととのやりとりというものこそ..
 それこそファンタジーであり、
 ひとの幻想の中にしか存在しない在り方なのだと思います。

 ただ..瞬間的に両者が同じ想い
 (或いはより私の感性に近い言葉を用いれば”同じ感覚””同じ認識”)
 を抱きあうような、刹那のやりとりということは、

 おそらくはひととひとの間にも、存在するのだろうな、
 と(最近は)思っています。

  何も大それた(と私には思える)..
 「理解」や、「受容」や「共感」といったものでなくても、
 そういった瞬間瞬間の認識の「共有」というもの。

  突き詰めればその瞬間を求めて!
 …ひとはひとと、コミュニケーションを図るのではないだろうか?
 と..「今の」私は、思っています。


  コミュニケーションの求める先の「結果」
 というものが、人間と人間の「完全な理解」でなくても、いい。
 ただそれを目指し、研鑽を積む過程そのものには、
 おそらくは価値はある。
 そしてその過程の中からでも、得られる「何か」が、ある。

  私は仕事をしているので、
 勿論それなりに「結果」というものも重視はするのですが、
  この映画も示しているように?
 人生の究極の結果が人の○であるなら、
 そこに行きつくまでの過程を、いかに充実させるか?

  それを求めるための日々の努力にこそ、
 価値があるのかなと思っています。
    
海洋天堂