停滞期

  • 2011/08/30(火) 23:59:25

…7月のお泊まり会二日目の朝。
ケースを連れて自宅お泊まりを敢行した私は、
二人で朝食をとりながら、
ぼんやりとTVを眺めていたのでした。

 日曜朝で、何の番組だか忘れたのですが、
取り上げていたテーマが”ダイエット”で、
その中で「停滞期」に関する説明が為されていたのです。

 停滞期..
一般に体重が従来の5%程度を超えて急激に減ると、
身体がそれを”異常事態”(ex:飢餓状態とか)と認識し、
脂肪の燃焼を抑える一方で食物を摂らせる働きかけを開始し
(食欲を亢進させるとか)
なんやかやと「身体に対し従来の状況を維持させようとする」
機能を発動させる、そんな時期なのだそうで。

 ダイエットによって一時的に体重を減らした者は、
基本的にその停滞期にぶつかる。
そこでダイエットを開始した当初景気よく減ってきた体重が、
「努力しているのにどうにも減らない」事態に直面し、
大きな挫折感を味わう。
なおかつ身体機能は元の体重に戻そうとアレコレ働きかけてくるので、
…結局それで停滞期という発想を知らない場合には、
上記の状態に耐えられないままダイエットを断念してしまう。
もっと酷い場合にはその復元作用に引きずられ、リバウンドを起こす。

 個人的には「ダイエット」!という観点で、
例えば○○ダイエットとかを熱心にしたことは一度もないのですが、
一方で体重の制御や制限にはそれなりに興味のある
(以前にも書いた気がするけど、周囲に「○0kgを超えたら死ぬ」
と宣言しているので、この制御はある意味で私の生命に関わる)
身としては、上記のような概念についても、
既にそれなりに理解はしていたのですが、
このときは、自分の興味や他の思考と上手くリンクして、
それなりに上記の情報が「腑に落ちた」のでした。


 関連して、生体恒常性/ホメオスタシスなんてぇ概念もありますね。
生体の内部や外部で生じる環境因子の変化にそのまま応じることなく、
生体内の様々な物理的・化学的状態が一定に保たれる/保とうとする性質
という感じでしょうか。

 上記した停滞期も、
生体が大きな変化にとっさに応じず、
急激な変化を「問題ある変化」と認識して、
それに対しリアクションを起こした結果と考えられます。
(停滞期は一般に1-2カ月間持続し、
その時期を経てその変化が「問題のある変化」ではないことを
身体が認識することで解除され、
「次の停滞期まで」体重は減ることになる)


 生物はある程度、この種の
「変化に対応しない」機能をデフォルトで有しているし、
それもまた、適応に資する機能なのでしょう。

 となると、変化..
療育の観点では指導や行動の強制などの過程で生じる
環境因子の変化というものに対し、抵抗を示すケースというのは、
その個人なりにある種の”自己の恒常性”
を維持しようとしているだけ、なのかもしれなくて。

 …まぁこういった感じで変化に抵抗する様については、
そのまんま児が「フィードバックが弱い」
という言葉で理解されることも、多いわけですが。

 私もまぁ..
変化に対し抵抗する機能の強い人間なので、それも分からなくもない。
今現在適応できているシステムがあるならば、
それを更新させたり変化させたりすることなく、
できればそのままずーっと、居たいと思う気持ちはかなり、強い。
(以前の職場で「タイムカードを導入する」てな話になったとき、
 私は最もそれに対し強い抵抗感を示した一人だった。
 それで導入したら導入したで「ま、これもいいか」
 と1カ月くらいで慣れた自分が、なんか哀しかった)

 でも変化しない環境は、ない。基本的には。
特に、子どもを取り巻く環境は時々刻々と変化する。
環境それ自体も、対処するひとも、
ルールも、居場所も、課題も、何もかも。
(一方で、大人がひとたび職場に居場所を得てしまえば..
 意外と変わらない環境というものを享受できるひとや状態、
 というものもなくない気がする。
 まぁ今のご時世、そんな居心地のよさも、
 決して安定したものでも保証されるものではないのだろうけど)

 子どもそれ自身が強烈な変化する意思であり、
その変化する力
(*どうでもいいけど、昨今、
 何かと個人の成長とか変化程度の言葉で済ませばよい事柄を
 「進化」とか、大げさに述べる輩が多い。
 特にスポーツ番組とかでその種の大げさな口調が好まれるようだが、
 私は無論、嫌い。)
を制御し、それへの処遇に意味をもたせようとすれば、
自ずと..環境の側も変化を強く意識せざるを得ないのかもしれない。


 で、当方のケースは当然、
その多くが部分的あるいは全面的に、
強い形で変化への抵抗を示す。

 そのケースたちに対し、
恒常性を維持したい、現状の適応に留まりたい!
という子どもの意思を超えて、周囲の変化に適応する
新しい行動や思考のパターンを与えようとすると..

 やはり、それなりに強烈な..
その引力圏を超えるような強烈な脱出速度というか、
インパクトというものは、やっぱり仕事的に必要なのかな、と思うのです。
少なくとも選択肢のひとつとして、それは用意され、
必要なときには使えるようでなければいけない。

 まぁ一番よいのは、当の児本人が

 「自分(の今の適応形態)はダメだ!変わらねばいけない!」

と思ってくれることなのだけど。
そう思ってくれれば、変化は最大の効率の下に為されるのだけど。

 それが自発的に生じるのを呑気に待っていると..
それが数年後だったり数10年後だったりするので(笑)
 こちらとしては別の経路も模索しておく必要がある。

 結局は常に上記の子どもの意思の変化を志向しつつ、
なのではあるけど、
こちらの側で、様々な状況やツールや課題や方法論を用いて
いまのきみじゃ、ダメ(適応できない)」→変わらねば!
という風にもっていく場合も、多い。

 実際こういった部分での働きかけを全く経ることなく、
ただ淡々と課題を提示し、ケースがこなしていくという関わりだけで、
ケースが..劇的な変化なり爆発的な発達、を示すことは、なかった。

 今の私は、特にクリップで仕事を初めて以後、
そういった”爆発的な”変化を遂げる事例というものを
少なからず目にしているので..
仕事的にも、よくも悪くもそれを最初っから求めるような部分が、
あるのだよな、と思います。
↑こういったことが、最近の私の仕事的なテーマ、です。


 …とりあえず、
変化というものを抵抗なく受け入れる個人こそ例外であり、
(某精神科医は、変化を希求する個人の在り方というものは、
 その個人の精神的、身体的な強さに規定されるものであり、
 逆を返せば上記の観点で”弱い”個人が
 変化を積極的に希求することは稀であると述べている)

 特に当方のケース等については、
それについて「強い抵抗が伴う」という発想を
対応者の側で予め認識していることが、
大事なのだよなと思います。

 …いや。
これはケース/子ども 
だけに当てはまることでは、ないのかもしれない。
変化に抵抗するというのは、大人にも当然備わっている機能だしなぁ。

体重計

平気でウソをつく

  • 2011/08/22(月) 23:30:49

 
 最近とあるケース保護者と話していて:

 発達や適応の状況に対応する形で、
「嘘をつく」ようにもなったのだが、
基本的にそれは、バレバレな嘘。
 しかもそれがバレても咎められても、
次の機会には概ね同水準の嘘を、平気でついてくる..

 ..確かに(笑)

私が関わるケースの嘘って、概ねこんな感じ、です。

 一方で「妙に自信がある」嘘つきというか..
そういう大人って、いる。
(まぁ私は接していて疲れるので、
 なるべく近付けないようにしていますけど)

 最近仕事/勉強会関係で、
サイコパス(精神病質者)の資料を読み返していて、
そこで扱われる彼らは.. もぉ正にそんな感じで。
 それのどこを信じられるよ?って水準の、
その場の思いこみレベルの底の浅い嘘をつきまくり、
それが余りにも自信ありげに発せられるものなので..
妙に信じられちゃったり、時にはカリスマ扱いされたりで。

 発言内容自体も、
躁病的というか超ストレートな自画自賛だったり、
概ねアッパー系のものが多く、
そういったものは、
読んでいて個人的には結構、楽しかったりするのですが。


「おれには弱点なんかないね。
 あるとすれば、やさしすぎることくらいだ」

「(10点満点で)10点満点だろうな。
 ほんとは12点と言いたいところだが、
 それじゃあんまり自慢しすぎる。
 もっといい教育を受けていたら、
 おれはとてつもない人間になっていたよ」

*強盗・レイプ・詐欺などで刑務所に入っているサイコパスの言
ロバート.D.ヘア.1993「診断名サイコパス」p.82


「…普通ウソって分かるでしょ?」って水準の嘘を、
ある程度以上の知性を示すヒトが
あまりに堂々と
(*時に本人も思い切り信じていたり)つくと..
それが通ってしまったり、
またそのことで当人の嘘をつくことへの精神的なハードルや、
自信が誤った方向に向上してしまったり..

 そんなことを繰り返し、
あーサイコパス(の嘘)や、ある種の間違った類の人間的魅力とか、
真正の詐欺師などというものも、できるのかもしれない。

 とりあえず自分のケースをそっち方面に持っていかないためには、
(まぁ大概は「単に嘘がヘタなだけ」なので、そこまで危惧しないけど)
つかれた嘘に対し論理的に、真正面から否定するか、
否定する証拠なりを得てから潰す、という感じになります。

 しかしそうすると、児が
「嘘はついてはいけない」
という方向に”過剰適応”してしまう場合も、ある。

 それはそれで困る。
というのは、適応した/定型発達者の世界において、
嘘は人間関係の潤滑油って部分は、確かにあるから。でしょうか。


 というわけで。

 近年は某指導グループ中では、指導の中でそれなりに
嘘をつくこと、他者の嘘を見破ること、
自分の気持ちを表面上偽ること、
などなどについて、それなりに実地で教えたり。なのです。

 実施してみると..
やっぱり個々人の思考の柔軟性とか知能とか..
そういった要素によっても、その種の嘘を身に着けるにおいての
効率性なども、異なってくるものだな、

とまぁ、当たり前の感慨を得るのでした。

・やはり嘘を上手につくにも、
 他者視点なり嘘を受ける相手の
 心的状態をシミュレートする機能の精度は、高いほどよい。
 *一方で先のサイコパスなどの例だと、そうではない領域で、
  思いっきり自信ありげに豪快な嘘をつき、
  それを通してしまうわけで、
  その場合にはこの種の他者視点機能は、
  むしろ弱い方がよいのかもしれない。

・それまでに形成された「良心」機能の強さや柔軟性、
 というものも、ひょっとしたら
 これに大きく関係しているのかもしれないし。
 (個人的な経験を踏まえて言えば、
 この種の良心の規制が小さいほど、
 上手に嘘がつけるという側面は、やっぱりある気がする)

 個人的にもこういう類の指導経験の数をこなしていかないと、
自分の中でその辺りの適性なり効率なり..
方法論を形成するには至らないのかもしれません。

 とりあえず上記過程を通じて、
こちらの意図した方法論の中で、嘘が上手くつけるようになる児、
などは、見ていて(*今のところは)楽しいと思えるのですが。


 ちなみに私は、
仕事的には嘘つくのは結構上手な方
(公平に言って”心理としては上手ではない”方だと思うけど、
 私に対し、周囲のひとがなんとーなく想定しているよりは
 上手、という感じ)
だと自己評価していますが、
本質的には自分の本質的な部分に正直でいたいというか..
「正直にしていないと自分の精神がどこか落ち着かない」タイプ、です。

 超自我なり良心が強いのか、衝動の抑制が下手なのか?

真っ赤じゃないけど、ウソ

お泊まり会

  • 2011/08/08(月) 23:37:48

 お泊まり会を実施してきました。


前回(7月実施)
http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-265.html

に引き続き..暑かったですけどね。
(今回も、二日目は屋外活動メインだった)

 二日目の行動は..
これも参加するメンツが固まった時点で、
概ね即興で決めた、「都電荒川線」でした。
6月に個人的な用事で乗ったときに、なんかよかったので。


 クリップのケースには(当然ながら)
濃く熱い鉄オタ或いはその予備軍は多いものの、
今回の参加者では「4名中3名は中立」
という感じだったのですが(笑)
それでも皆さん思ったよりも都電の風情を楽しんでいたので、何より。

 移動経路の中で予想外に、
某大学のオープンキャンパスに紛れ込んだり..
結構いろいろと楽しめました。

 王子の飛鳥山公園
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/facility/055/005518.htm

については..私の近親者が過去に住んでいた街なので、
自身も幼少期には何度か行っていたようなのですが。
 いい意味でその頃からそんなに大きく変わることもなく、
公園としての品を保った、よい公園でした。
子どもたちも様々な遊びに興じ、満足したご様子で。


・それもこれも..
 今回参加した4名が全て、
 「他者への攻撃性が殆ど皆無」
 というメンツだった、という事情もあります。
 平和主義者なので、児どうしの諍いも争いもなく、
 衝動的な動きも概ね想定されないので
 (鉄オタ1名を電車に近付けるときのみ、やや緊張するけど)
 指導側としても実に..
 平和な気持ちになって対応することができるのです。

 そういった攻撃性を..
 ひととして持たなければ、
 それがひととして「よい」状態なのか?
 という点については、適応の側面や療育の側面で、
 それぞれなりにおそらく意見は異なると思うのですが..

  私が一貫して、個人的な経験も含め思うことは、

 「悪意を持たない心では、他者からの悪意に対応できない」

 ということ。

  別に悪意を向けられたらその都度戦いを挑まなくてもいいのですが、
 それを適切にそらしたり受け流したり..
 それなしに扱う術を身につけるには、
 自身の中に他者への悪意を生じさせ、それを自覚し、
 コントロールする経験も、積まなければいけない。
 そうでなければ、他者からの悪意に対応することはおろか、
 それ以前に悪意に気づくことすら、できない。

 と、私は基本的には、考えています。
 (児の知的能力や最終的な到達地点によっては..
 必ずしも上記の限りではなく、
 「悪意というものを可能な限り身につけない」ことで
 身を守るという対応もあるのだとは、一応思っています)

 故に今回の一貫した平和っぷりについては..
 「単純にそれでよい」という気分では別にないのでした
 (管理運営の観点では楽で結構だけど。
 書いてみて思うけど、大人の管理運営の観点での理想と、
 発達の理想をごっちゃにしてはいけない!そう思います)。


・一方で、参加した某児の振る舞いなどを見るに、
 無欲である/常識的な欲望に振り回されない在り方や、
 それ故の「自由」さを.. 
 やっぱりいいなぁと思う自分も居たりするのです。
 (その無欲さと上記の平和さも、本質的には同じものだと思う)

 私が自閉症やその周辺状態にあるお子さんの振る舞いに
 基本的な好感を覚える理由の..
 それは正に本丸に近いものだと、言えるのかもしれません。
 (私は、自分が拘ってしまう行為や在り方について、
 それを「どうっでもよいもの」として扱う他者の在り方を見ると、
 そうして自分の固定観念をぶっ壊してくれる他者について、
 率直な好意を抱く場面が、多い)


  特に自閉傾向を持つ児(*の全てではないけど大部分)の示す、
 「他者からの称賛や評価を求めない」
 動きについては、
 それに振り回されまくって日々を送る定型発達者としては..
 ある種の憧憬を抱くことは、あるのではないかなと思います。
 (私については..仕事を離れれば、
 基本的に他者の評価なんざどうでもいいっす、
 というキャラクターで生きている部分が強いのですが)

  同様に無欲であるがゆえに、さして緊張することもなく、
 その都度十全に能力を引き出して利用することができる
 という辺りも、見ていて少々羨ましかったり。


・自閉症やその周辺状態にあるからといって、
 それが他者に対する依存心が、少ない/小さい/ない!
 という状態であるとは..
 決して言いきれないのであるなということについては、
 ここしばらく(6月と7月と今回の3回)実施してきた
 お泊まり会での様々な経験から、
 改めて認識することができました。

  実際彼らは..
 定型発達者のそれとは多くは異なる形態をとりつつも、
 他者(近しい大人や指導者)に対し、
 それぞれなりに個性的ながらも、
 充分に「依存的」と言えるような行動を、示してくる。
 (それが依存の在り方であるということを意識できないほど
 奇妙だったり微妙だったりする行動も、あるにはある)
  
  その依存の在り方が「適応的でない」と判断された場合には、
 指導側としてそれについて何らかの対応をとる必要もあるのだけど。

 とはいえ、そういった観点においても彼らが..

 非常に「人間的」である、
 或いは「人間以上に人間的」である、
 と感じることができるのは..
  私にとってすら結構新鮮な観点であり、
 時に、それを誇らしいと感じたりもすることもあるのでした。

 一方で私個人としては
 自分の中の「他者への依存を一貫して嫌う傾向」、
 というのは、今もって強く自覚するのですけれども。

 「依存する」という行為は..
 それ自体非常に人間らしい行為なのだよなということは、
 比較的最近、認識できるようになったのでした。

何故か早○田大学

都電荒川線

飛鳥山公園(1)

飛鳥山公園(2)