理不尽について

  • 2011/11/29(火) 23:25:05

 クリップで日々仕事をしていて思うことは..

業務そのもの或いはその考察について、
一定期間(一ヶ月中とか)に
一定の仕事上の/思考の”テーマ”が生じることが比較的多い、
ということです。

 今月は、大体..
こんなテーマをもとにケースや保護者に相対し、
仕事をしたり話をしたりするというような、
大枠での思考の流れが生じることで、まぁ..
同じケースに毎月ひたすら同じような話をしたり対応をとったり、
といったマンネリ化を、意外に
(まぁそれでも効果は完璧に、ではないし、
 またその種の反復的な対応にしても、大事ではあるのですが)
避けることができるのです。

 前の職場では、
仕事の中でそれを見出すことは、実に少なかったのです。
というか.. 余りに忙しすぎたし、
また相談或いはケースそのものについて考える以外のことに!
(まぁ管理とか運営とか外部との調整とか)
自分の時間の大部分が割かれていた、という事情もあります。
 それを別にしても、相談は自分の持っているもの:知識とかノウハウを
延々と外部に表出(アウトプット)していく作業であり、
それだけを続けていると自分の中の知的資源が枯渇してしまう、ので、
勢い読書や研修などを通じてそれらをため込む類の
インプットの作業を、日々こなさなければならない。
まぁ私は読書を中心にしてこの種の作業も嫌いではないのですが、
とにかくそれにしても時間というものがもぉ絶対的になかった!!
んだよなぁ当時は。


 先月ブログに記載した内容とやや絡みを持ちつつ、
ここしばらくのテーマが、
「理不尽であること」。
理不尽な対応、あるいは子どもからすれば「理不尽である!」
と言いたくなるような対応を、指導者として意図して行うことへの
自分なりの意味づけ、といったようなことなのでした。

 直接のきっかけは..
某活動の中で某ケースが某指導者(笑)に
かなり強い形での対応を受けた際に、
その児が..
世の中にこんな理不尽な行為をとる大人が 存在するのか!
というような(笑)
恐怖以上に心底からの驚愕の表情を浮かべた

 というエピソードについて、
その際現場に居合わせることのなかった私に、
親切に説明してくれる某ボランティア氏がいた、
ということなのでした。

 
 私自身は..
合理的な人間/合理的であることを志向する人間
なのだと思っています。

 時にそれを”超”合理的と言ってもよいと思うし、
まぁ日常的にも「理由もなく」何かをするということができない。
(常々言いますが「散歩ができない」!
 何か目的がない状況でただその辺を
 ブラブラ歩くという行為を、
 自分に認めさせることが、できない)

 それが業務上の行為となればなおのこと、
お金を頂いて仕事をする以上、
それは合理的/合目的的でなければならない!
という信念に基づき、
指導計画をたてるし課題設定をするし、実践をする。
目的がなく/なんとなくで動くのは罪悪である!
という思いすら、あったりする。

 ケースとの対応についても、
基本的には「その動機づけを高め、課題に対し見通しをつける」
という観点において、ケースに対し課題の意義を説明したり、
動機付けなり目的意識をもたせることは、
基本的に非常に大事な対応だと思っています。

 ただその一方で..
”クリップ以後”である指導の過程においては、
その種の理由を示さず/明確にすることなく、

「ただ目の前の課題を実施せよ」
「四の五の言わずに、せよ」 

 という形で児に対応している場面も実際問題増えている、のです。
それには無論その対応をするための
個々の児なりの理由や事情があるわけなのですが
(代表的なもの:とにかく「指示に従う動きができない」
 /通常の要請や対処では
 児の当面適応している(しかし不適応的な)
 パターンを崩すことができない)

 しかしその対応は、
特に児の中に「何のためにこんなことをするのか?」
についての見通しが生じていない場合には、
それは児当人にとっては実に、
「理不尽な」対応であるのだな、

と..上記のエピソードなどを踏まえ、思ったのでした。

 上記したケースは、
その(児の考える)理不尽さというものが、この世に存在する!
ということを自覚したことを踏まえ、
その後ある種の行動上の(まぁ適応的なといってよい)
変化を示したと私は評価しています。
とりあえず..
「自分の行為が..思い切り叱責されるような、
 そういうこともある」のだと自覚することで、
自分の行為に対して以前より多少なりとも自覚的になったり、
その行為が他者(*恐ろしい大人とか)にどう評価されるのか?
気にすることも含めて、
自分の行動を選択できるようになったのであれば、
実際にそういう状況が増えたのではれば、
それは、そういった「思考の選択肢」を持たずに生きてきた
児にとっては望ましい変化であり、発達でもあると思うのです。
 

 しかしその理不尽さというものは..
合理的であることや動機付けを高めて対処させる方式の..
基本的には対極にあるものであり。

 私は嫌いなのです。理不尽なんですから(笑)


そもそも「”理の通らない”行為を他者に強いる」
というのは..

 私の考える””という概念に
限りなく近い発想であると言えるのかもしれない。
(私は、自分自身がその観点における”悪”を、
 職務上為しているということについては、
 比較的明確に自覚があります。
 まぁ療育や..教育だってそうですが、人の行動やその傾向について
 何らかの変化を望む立場の仕事をする以上、
 その行為には常に、
 なにがしかの悪は内包されているのだと思うのですが)
  

 その理不尽さというものを自覚しつつなお..
意識的に指導に用いることによって、
ある種の効果が生じるか?
というのが、現状での私のテーマなのでした。

 その観点において、
対応している児に対しかなり意図的に、
「その児にとっては”理不尽である!”
 ということになるのであろうなぁという行動」
(理不尽の極限は暴力でしょうけど、
 ↑くらいのところ..
 ”児にとっての理不尽さ”を追求する程度でよいかと
 個人的には思っています。
 暴力は..選択肢としては全否定ではないのですが、
 ただその弊害なりリスクなりが大きすぎて
 あとあとコントロールできなくなる危険が大きいので)
を強制することを
かなり意識的に実施する機会をもったのですが。

 それは勿論(自分の価値観にも多々抵触するし)
なかなかに辛い対応ではあるし、児の方にも
少なからず不満なり葛藤なりが生じる対応ではあるし、
きちんとやってみれば双方ともフラフラになるほど疲れること、
ではあるのですが..
しかしそれは(少なくとも短期的には)児の行動なり
行動の選択に際して、何らかの目に見える変化をもたらした。
少なくとも私はそう評価したのでした。

 児の動機を高め、やる気を持たせた上で実施させる課題は、
児の主体性を向上させるという観点では「効率的」ではあるのだけど、
なのだけど「やりたいからやる」となった、その流れの先では、
私の考える「努力」であるという要素が、(相対的に)効果を示さなくなる

*http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-172.html
 など参照。要するに指導においては「したくないことをする」
 ことによって高められる部分がある、という認識です。
 適応の過程の中には、少なからずこの
 「やりたくないのだけど、でもする」
 という意識の流れを児が持つ必要は生じるし、
 その必要性はケースの成長に応じて高まっていく。

 児にとっての理不尽である課題を敢えて実施させ、
それに不満を感じさせつつも遂行させる中で、培われる要素というものも、
相談ではない「指導」の過程の中では、
重視しなければいけないのかな、と思うのです。
 まぁ..設定が理不尽であればあるほど、児当人や、
場合によっては保護者の方にしたってその「理不尽さ」に
脅威や反発を覚えても、ある程度それは当然だと思うわけですが。
対応者がその辺りの思考を超えたところで..
新たに見えるものもあるのかなと思うのです。

 また、自閉傾向がかなり強固である事例の初期対応において、
この種の理不尽(児の状況によっては、
 客観的には全然理不尽でない事柄が
 とんでもなく理不尽と解釈させることも多々ある)
に晒し対応させることで、その状況を脱する/コントロールしようという
意識が生じ、その過程で初めて!他者というものを自覚するようなことも..
個人的な経験からは、あったな、と思います。


 上記のエピソードに関連する形で、
ある種の組織..
まぁ「命令に服従することが絶対的に重要」な組織..
対応のひとつひとつをきちんきちんと実施すること/
上位者の命令に従うことが、常に自己や他者の生命に関わる!
程度の高い緊張感を有する組織における、
指導なり教育の方法論、
というものには、元より個人的には結構興味をもっていたのです
(政治的にどうこうではないのですが、その種の教育システムからも
 なにがしかのことを学べるのでは?という観点です)。
 11月の外出ではそんな興味もあり、これに関連する施設に行ったり
元々数年前から関連する資料に目を通したりもしていたのでした。


 無論
「だから理不尽全肯定」
という立場では決してない、のですけど。

 対応のベースは合理的/合目的的であり、
時にその種の理不尽さを、こちらが適切にコントロールして、
課題の中で扱うことができれば、
それは更に指導に資する知識や方法論に結び付くのでは?


 上記の観点とは別に..
当方のケースの多くは当然、
「その児たちなりの形で」合理的なひとたちが多いわけで、
(更に言えばその保護者の方々も、
 基本姿勢において合理的/合理重視の方が多い気が。
 まぁその辺りで私も気が合うという部分も多いのですが)

 しかし彼らにとっての”他者”は本質的に
(児たちが望む程度に、彼らの都合に合わせる形で)
合理的ではない!
 いうまでもなく世の中もそのルールも、
真に合理的と言えるものでは、ない。

 であるならば、
誰しも「適応的に」生きて行こうとすれば、
そうした世の本質的な理不尽さとも適切に対処しつつ、
生きていかねばならない
(まぁ私だって..多くの場面ではそうしているわけだし)。

 故に指導の中で、児たちが..
その理不尽さと(敢えて、意図的に)向き合うこともまた、
意味のあることなのであろうな、と思うわけなのです。


 生きていけば理不尽なこと、筋の通らないことは..
いくらでもありますよね。

 個人的には、合理的な人間にとっての「子育て」、
子どもに24時間365日、関わり続ける過程そのものが、
…理不尽であることの極限なのかもしれないなぁ、と思ったり。

理不尽イメージ

11月の

  • 2011/11/27(日) 23:50:34

 11月は..
前半にやや長めのお休みをとったりした一方で、

例によって体質を変えるために実施した試みの結果として
月末に体調を崩したり(6月末に仕事を休んだときと状況は近い)..

 そんなこともありまして、
何やらゆっくり思い返すこともないまま、
過ぎ去ってしまうようなそんな印象が..
まぁ大きなイベントもなかったしねぇ。

 クリップ的には指導室に(まぁ指導に資するための)
新しいモノを置くため(12月中に正式稼働の予定)
今はそれなりに忙しく過ごす日々なのでした。

 12月は..
お泊まり会もあるし、1月の合宿関連の諸作業もあるし、
あぁそういえば年賀状を書かねば!
とか思い返して既にグッタリしているのですが..
 まぁ12月は誰にとっても忙しい月なのですしね。


 で。
前半のお休みでしたが、
今回はお金的にアレで(笑)旅行には行かず、
代わりに近辺で「これまで行ったことのない場所に行ってみる」
をコンセプトに、毎日いろいろと..巡ってきました。
とはいっても、仕事関係の玩具や教材の店あたりが
それぞれの移動先への主たる動機になっていた部分が
大きかったりするのでした。


その購入物:
(他にも小物はいろいろ。クリップの玄関に置く系の視覚玩具とか)

net上で評判のよかったカードゲーム。
 購入後まだ試しの段階です。

△海譴
 http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-257.html
 で示したコリドールと同系統の二人対戦ゲーム。
 少々お高いので購入を控えていましたが、ミニ版が出たので。
 (コリドールも同じく小さい廉価版が出た)
 …「自分の置くコマ(の種類)を相手に選択される」
 というコンセプトにちょっと面白さを感じたのでした。
 まだ一度しか試していませんが、
 コリドールの完成度には達していない印象。
 もうちょっと試してみます。

F鷽預仞鏃燭離侫.鵐織検璽皀繊璽佞發痢
 二人対戦でこの分野だと
 依然、”バトルライン”最強!という感じなのですが、
 アレは中学生くらいでないと流石に対応できないので。
 もう少し平易なものという辺りで探しました。
 まだ試していません

ち瓦買うつもりがなかったのですが、
 上記を買うために寄ったお店で、あまりによさげな気がした(笑)ので。
 ボードゲーム(カードゲーム)でボクシングを!
 するというだけで何か妙にイケる気がしたのです。
 ボードゲームなのに”リアルタイム”を謳うというのも、異常に気になる..
 まぁ..ネタゲームな予感も、濃厚に漂うのですけど。

コロレット
クァート
ドラゴンの心臓
リアルタイムボクシング

言語 / 無限 / 創発性

  • 2011/11/14(月) 23:26:52

 PDD傾向をもち、言語発達が年齢相当でない場合、
或いはそうでなくても言語面の発達に問題を抱える児の場合、
 その獲得している言語
(勿論「言語を獲得しない」という発達状況も、ある)
の特徴として、その創造性の無さ/少なさ、
というものを感じることがあります。

 なんというか、言語に拡がり/拡張性がない。

 発している総量としてはまぁ..
多かったりすることも稀にあるけれど、
それもまぁ同じような発語のリフレインだったり、
特定の状況で特定の決まり切った言葉を発するだけだったり。
それは録音した音声を状況に合わせて再生しているような、
そんな印象。

 学習の過程でその「再生できる音声」が増えるような形での
「進歩」を示すこともあるけれど、
私が思うにそれは正常な言語発達の流れとは異なるもので、
正常な言語発達の中では、「選択できる音声の種類が増える
という以上に本質的な..
ある種のブレイクスルーが必要になる。

 上記の言語発達段階にある児/ひとは、
思うに、言語というものの理解なり扱い方を取り違えているのだと、
私は思います。
例えば「ある状況である決まり切った音声を発するのが
言語なりコミュニケーションだ」と思っているとか、
相手からの声かけに関係なく、自分の考えを述べるのが
コミュニケーションだと思っているとか。

 言語というものは、ひとの有限な発声能力からなる
有限の”音”を組み合わせた、無限に近い量の
(とはいってもひとが生涯で扱える言語の総量は..
どれくらいなのでしょう?100万語くらい?)
単語を形成し、
更にその単語(意味内容)を組み合わせることで、
原理的には本当に無限の!拡張性を有している。

 その無限のバリエーションが「存在する」という正にその点!
決まり切った言語を使うのではなく、
それらを自分で考えて「組み合わせる」という作業を行う点にこそ、
(ある発達段階を超えた)言語によるコミュニケーションの本質が、
あるのではないかな、と。

 私自身..
言語の拡張性が「原理上無限に近い」ということを認識したのは、
実は結構最近のことだったりするのですけど。


 単純なものを組みわせることで、
事実上無限のヴァリエーションが成立する。
その言語の本質を..扱う者が
(別に凄く明確な理解でなくてもいいのですが)
 感覚的に理解して受け入れていないと、
 年齢相応の言語コミュニケーションは、おそらく成立できない。

 例えばある種の..
物凄く(PDD的に)堅い児の
言語発達が伸びづらい事情として、
その種の状況に応じた、自分で言うべき
「新しい/創造的な」言語活動に容易に適応できない、
というような事情はあるのだろうなぁと、傍で見ていて思います。

 緘黙児などの場合にも..
この種の本質的な堅さを感じることが多々あります。
 要するに「いうべき正しい言葉を新規に考えることができなくて」
固まるというような状況が彼らの場合多々あるのでは?
 言語は本質的に厳密さを徹底的に求める過程ではない
言語活動が本質的に創造的に、かつ自発的に意味内容を
創り出していく過程であるということを理解できていないと..
まぁ、固まるしかないのでしょう。

 これは言語のみならず、振る舞いにおいても同じ。
自身の行動や判断に厳密さと正確さを求める意思が強すぎると..
極言すれば多くの状況下で「何もできない」ということになる。
 言語にも振る舞いにも「正解」があるわけではなく、
”それに近い”状況を求めて自発的に関わることこそ、重要なのだけど、
それに気づけない個人というものも、いる。
 

 私が言語というものを考えるとき、
何故か”創発性”という言葉が浮かぶのです。

 言語が、ここまでに述べてきたような意味で
本質的に”創造的”な過程であるという点は、まぁいいとして。

 そもそも「創発性」って言葉自体..
ありましたっけ?(ワープロも変換してくれないし)
と思って調べると、一応ある。

 単純な構造をしたモジュール(機能単位)
が、多数組み合わさることで、複雑かつ高度な機能を有する。

 というような意味らしいです。

…まぁ、言語の本質をそう捉えても、間違いがないわな。

 
 仕事においてこの種の言語発達の遅れに関わる場合には..
やはり少しでも、児がその段階で適応している言語の
選択肢の少なさ/拡張性のなさというものに関わり、
それを少しでも変えていく/拡げていくことで、
最終的には上記してきたような、より創造的/創発的な、
言語の扱いに移行させていくことを目的にします。
(用いる手段はケースにより異なります。)

 個人的には、ここで述べてきたようなことを
最初から”狙っていく”という部分を外さなければ..
それなりの結果なり変化というものは、
個々のケースの状況に応じた形で、望めるものだと思っています。


 とにかく療育の仕事の本質は、
その段階までに児が適応してきたパターンを
如何にして崩し、新しいパターンに移行させていくか?
それを如何に効率的に実施するか、
ということにかかってくるのだと思います。

 それを私の言葉でいうと
「使っていない脳を使う」という..
実に何というかそのバックボーンからしても甚だ雑な、
言い方になるのですけど。はい。

創造イメージ