1月のこと

  • 2012/01/31(火) 23:01:52

 いろいろなことがあり、
いろいろと考えさせられた1月も、おしまい。


 一番大きな(現状での)職務上のテーマを与えられたのは、
やはり合宿でのことでした。

 http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-282.html

それは突き詰めれば
「保護者対応」
ということなのですが、それはまたいずれ書くとして。


○1月末のグループでは、昨年に引き続き
 (*恒例行事にしたい)
 「今年の目標」課題を実施しました。

 http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-245.html
 ↑昨年の記載

 やはり、言語能力において高い水準にある児は、
 比較的早い段階で、大人の評価基準と概ね近いレベルで..
 他者(おそらくは、ある程度自身についても)評価を
 できるようになるのだなということを、
 今回も確認することができました

 *昨年の9月合宿の直後にも、参加児たちに
 他者評価をさせ合ったのですが、
 その際にも概ね同様の感想を得た

 児たちによる、シライ先生の目標
ほどほどにする *同様の意見3票
・力の加減をする

 一方で「もっと厳しい指導をお願いします」という..
 君はマゾなのですかと言いたくなるようなご意見もあり。

 私の目標
・凡ミスを無くす
(課題設定における)バランスをもっとよくする

 …。
 言いたいことはいろいろあるのですが、
 課題の性質上これに文句を言うことは許されないので、
 「利用者様からのご意見」として真摯に受け止めることにします。

  保護者にも、(そんな直球で)批判されたことないのに!
 (*古谷徹の声で「..親父にもぶたれたことないのに!」のニュアンスで)


○1月の某時期に某機関に学ぶ某児たち(笑)を、見に行きました。はい。

 その機関に学ぶ児の..
 特に年長にあたる子たちというのは、
 その大部分が、前の職場における私の関係者
 (当時私が担当していた児や、
 それに準ずる対応をしていた児たち)
 なので..
 
 彼らを久しぶりに見ることについては、
 個人的には実に感慨深いものがあるのでした。

  みんな伸びている!びっくり。
 身体も..バカでっかくなってまぁ(笑)
 言葉や知能(というべきであろうもの)も、
 私が想定していたよりもずっと伸びている印象で、
 立派になったなぁ! と素直に嬉しく思えました。

  実は以前のある時期には..
 「当方で指導をしていない」児たちの状況や予後については、
 自分なりに結構悲観的な予測を立てたりして
 勝手に落ち込んでいた時期もあったのですが。

  そんなことはない。
 子どもは、子どもである限りにおいては!
 着実に成長し、進歩していくのであるなぁ、と思い知らされました。

  一方で、その中に混じって、
 今も(*クリップ開室直後から)
 当方で関わっている児たちをそれと比較しつつ眺めると..
 やはり何か「違う」「差がある」と感じられる。
 
 それは..
 それをなかなか適切に言語化することが難しいものではあるのですが、
 学校における児の学びや遊びに対する
 姿勢や在り方、といったものについての
 ある種の「洗練」の度合いなのではないか、とその時は感じました。

 まぁその評価にしたところで

 豹討陵潴棔匹澆燭い覆發里もしれない
▲リップ”ではない”領域における、当該児なりの事情
 (環境要因:保護者の日常的な関わりの姿勢とか)
C韻忙笋見ているので、ビビってイイ子にしていた(笑)

 のような要因が働いた上のものであることも、
 考えられるわけで。
 (私がそう思っているかはともかくとして)

 
 いや別に結論として、勿論
 
 「クリップなんか、なくて全然いい」
 
 という話をこの項でしたいわけでは全然なくて(笑)
 (むしろどちらかと言えば、その逆の想いを抱いたわけで) 

 …そういったことをも踏まえた上で、
 「クリップとして」当方に関わる児たちに、
 何をすることができるのか?
 何をしていくべきなのか?
 どのような目的意識をもって、子どもに関わっていくか..

  
 そんなことを考えつつ、眺めていました。


1月イメージ

立ち位置、というもの

  • 2012/01/13(金) 23:46:23

 最近では珍しく?
明確なネタ(イベントとか)抜きで、
書きたいと思って書くこと:


 私の或いはクリップの、
療育における立ち位置というものは..
どのようなものであり、
他者に聞かれたときにどのように説明すればよいのか?

 ということについて、最近少々考える機会があって。

 それは一番卑近なレベルであれば、

「どのような療育/発達心理学 理論をもって、
 目の前のケースに関わっているか?」

ということでもあるだろうし。
とりあえず今回の思考の切っ掛けは、この辺です。

 
 私は実のところ、
これまでそんなに強い興味を持ったこと自体少ないのですが(笑)
療育における、方法論なり指導手法なりというものは、
今時は世に結構いろいろと、あるものなのですよねぇ。

 そのそれぞれに、
それぞれなりの依拠する理論なり考え方なり、
実績なり繋がりなどがあって。

 そう考えたとき、
私及びクリップの立ち位置はどの辺にある?
と他者から問われたときに、どう答えればいいのか?

 ちょっと考え込んだのでした。

 ま、勿論自分なりにその辺について理解はしているのです。
こういう理論をベースにしているとか、
課題設定に際しても基本的にはこういう領域を中心に、
こういう目的意識をもって扱ってきた、とか。

 でもそれが、
他者に明確に説明できるほど
綺麗に、一本化されたものとして在るかというと、
全然そんな感じではなく(笑)
現状ではいろいろなものが混ざって、
それが概ね自分のひとつのスタイルになってしまっている。

 療育の仕事を始めた9年前には、
とにかく自分を支える理論なり方法論を
強く必要としていたのは事実で、
(特定の指導者に師事しているわけでもなく、
 全くその種の理論を持たない状況で呑気に仕事できるほど、
 当時の私にしたところで、傲慢でもなければ心臓が強いわけでもなかった)
ある程度その種の「プログラム」的なものに頼って仕事をしていたのですが、
おそらく今は、そのような単一の理論やプログラムに基づき、
ケースを把握し、指導していくことには限界がある、と思っている。

 一方で、
その種の「プログラム」重視の療育スタイルというものは、
世に結構多く、ある。

 プログラムそのものは、
あってよいものだと個人的に捉えています。
私にしても初心者の頃にそれに頼っていたわけだし。
 自身で状況をある程度理論化したり、
その経験量や思考をもって状況をコントロールできるだけの
資質や経験を欠いた状態にある個人を、
プログラムを入れることによって、短期間で
「専門家」存在に移行させることができるというのは、
この世界の人材育成という観点でも悪い話ではない。

 一方で少々不安を覚えるのは..
プログラムというものに過度に依存すると、
「その枠組みでしかケース(児)の状況を把握できなくなる」こと。
同様に
「その枠組みに対応できない事例を、
 (無意識に)排除する論理が生じてしまう」こと。

 これは..
これまで現実にいろいろな場面で目にしてきたことでもあるし、
療育における方法論なりプログラム等ののシステムが「ある段階」に入ると、
陥りがちな問題だと個人的には思っています。
(うちもその辺、勿論例外ではないのだけれど、
 幸か不幸か「まだ全然その段階ではない」)

 まぁ..
どのような領域においても
「これが正しい!」
「この方法論が最良である!」
といった言葉を期待する状況というのは、
どうしたってひとの中にはあるだろうけど、
それに飛びつくことは、少々危険なこととして映る。私には。

 例えば自閉症を「病気」と考えるひとにとっては、
それは 治療する/直す ものとして把握されるだろうし、
「それについて明確な治療法があること自体が、自然」
ということになるのだろうけど。
(*私は何度かここでも述べてきたけど、
 自閉傾向というものについては
適応の状態」のひとつとして認識している。
 適応の在り方自体に絶対的な正解がなく、
 それが本質的には文化や価値観等によって
 常に変化しうるものである以上、
 その対処法についても
 「絶対的なひとつの解答」は存在しない、と)

 そして単一の理論や思想への過度の依存は往々にして、
「その分野の経験量が不足した個人(指導者や保護者など)」
の中で起こりやすい。
逆に言えば、この状況に容易に移行するようでは、
その個人は少なくとも心理や相談領域における
「専門家」ではない、と私は思うのです。

 専門家である以上、多くの理論を身につけ、
それを状況に合わせ選択して用いなければならない。
何かひとつのものを絶対視して、それに過度に依存してはならない。
ある状況に対し、
自身の依拠する「単一の」理論を当てはめることしかできないなら、
それは..少なくとも私の考えるような意味での専門家では、ない。

 ま、この辺りについては
私もそんなに偉っそうなことは言えた立場ではないのですが。
 でも私が仕事上敬意を払う専門家の方(の大多数)が、
その種の..一つの理論に強く固執するといった立場を超えて
(ベースにかなり明確な理論を持つ人はここに含まれているけど)
状況を客観視できるだけの、
視野の広さと経験を備えたひとなのでした。


 結局問題は、
単一のシステムなり、
それを体現する個人や集団への「絶対視」なのだと思います。

 絶対視は対象への批判精神の欠如に繋がり、
批判精神のないところに向上や進歩は、ない(と、私は思う)。
(*「愛とは対象への批判機能の低下である」
 という言い草をどこぞで目にしたとき、
 私は凄ぉぉぉくその通りだと思った。
 なるほど!! だから私は(以下略))

 そんな流れで、
最近とあるプログラム療育系?のサイトを
(滅多にそんなことしないけど)ぼんやりと眺めていたら
「多分(この世界で?日本で?)一番、(療育の)臨床経験がある」
といった感じで、主催者さんが紹介されていた
(*本人がそう言っているわけではない)
「どんなに凄い経歴を、そのひとは重ねてきているのだろうか?」
と半ば本気で期待して調べたら、今年で15年目だった(笑)

 …。いや、年月を超え、私の理解を遥かに超える濃いぃ経験を
重ねていらっしゃるのかもしれませんし、ねぇ。
ま、15年でも私よりは長いし、ね..

(*これと直接関係ないけど、最近一番驚いたのは、
 某「読書家」として有名な?お笑いのひと(PのM)の
 生涯読書量が「2000冊」だったこと。
 私はこれを知り
え? 20000じゃなくて?
 とこっちは本気で吃驚した。
「自分は読書家である」と言えるひとで、
 その冊数で..ほんとに言ってしまっちゃって..いいの?と。
 私は勿論2万とか読んでないけど、
 特定領域の研究者とか著述家ならそれくらい..いきません?)


 カール・セーガンの言葉として

「科学に権威はいない。せいぜい専門家がいるだけだ」

というのが、私は好きです。

 個人なり方法論なりに何らかの”権威”
(これが更に進むと神格化とか)が生じた時点で、
それは科学的な思考/批判する精神を離れ、
対象を絶対視する方向へと向かってしまう。

 で、そうなればその権威は、
例外なく腐敗していく(と私は思う)。
批判する精神をもたない、というのはそういうことだと思うので。

 だから私は権威になりたくない。
ま、なりたくてもなれないけど(笑)

 あくまで専門家としての立場で、
常に客観性(と、願わくば多くの知識と経験)をもって
目の前のケースに対処したい。
 専門家としてひとと関わること、
そうであろうとすることは
それ自体に特有の面白味と緊張感がある。、
その水準を維持することにこそ、意義がある
との想いを(*まぁ最近他にもいろいろと考えた結果)新たにしたのでした。



 もうひとつ。実施主体が

「どのような理論をもって、目の前のケースに関わっているか?」

という考えを進めれば、

「どのような教育観・発達観を有しているか?」

更に突き詰めれば

「どのようなひとの姿を 是/理想 と考えるか?」
「どのようなひとの姿を望まないか?」
 或いは
「どのような基本的人間観を有しているか?」 

というところまで、或いはそのもっと先まで、
おそらくは思考は行き着かねばならない。
そういうものを持たぬまま、ひとと関わり、
ひとに影響を与えようという仕事をしてはいけない、と私は思う。


 その種の..
「哲学」といったものを欠いた、
方法論なりプログラム「だけ」で成立している
システムなり状況というものが、
仮にどこかに存在しているのであれば、
私はその方法論は好きにはなれないし、
興味も持てません。とりあえず。

*大概のプログラム/手法については、
 その背景となる理論や発想、創始者特有の経験というものは、
 あるのだと思います。私はそういう背景が「見える」類のもの..
 それなりに人間の匂いのするシステムについては、
 基本的に好きです。

 そこに対処すべき問題があり..
人に対するある種の試練というものがあるのであれば、
「てっとり早くその問題を解決/解消する手段」を
求めるひとが居るのは、
まぁむしろ当然のことだと思います。
そういう当事者の気持ちを軽く見るつもりは、ないのです。
実際その問題が深刻で、
直近に対応しなければいけないのは確かなのでしょうから。

 ただ、療育で扱う問題については、
究極的には精神医学における”寛解”状況は、想定できない。
個々の局面における小規模な勝利は想定できても、
全領域における完全勝利状況は、原則として、ない。
(この「完全勝利」というものを、
 保護者に対しストレートに期待させる療育者の態度
 というものが、もし仮に万が一この世にあるとすれば、
 私はとりあえずその在り方を..
 全否定したくなるだろうなぁ..)。

 
 その種の「正しい」「分かりやすい」
方法論とかプログラムというものは..
状況をあっさり説明してくれる、
万能(或いはそれに近い)理論というものは、

 ”ある種のひと”を凄く惹き付ける、んですよね。
オ○ムとかにそれを求めていたひとっていうのも、
多くは「その種のひと」だったのだと個人的には思うし。
 で、その種のひとは..
「その種の子たちの近縁にも、多い」
という経験即もあるわけで。

 だからこそ、根は深い。


 科学の立場で言えば
万能で、批判の余地のない理論は、
それ故にこそ、既にそれ自体「科学的ではない」わけです、が..

 一方で

 「世の中に、絶対正しいことは、ある!」

 て本気で思う立場も..
まぁあるわけなんですよね、多分。
私はそう思わないけど。

 その立場に在るひとからすれば
正しい理論/正しい方法論
というものは「現に存在している」ものであり、
そのシステマティックな理論が世に広がることで..
「問題は解決」されると思っている。
 その場合、対応の軸は理論であり、方法論/プログラムとなる。
一人でも多くのひとがそれを学び、身につけることが、
すなわち世界の正義となる。

 私はやはり、そういう立場には立てないようです。

 方法論は所詮「道具」であり、
道具である以上、それはひとの機能の延長でしかない。
 ひとがひとの問題に対応する以上、
その主体は方法論でなく、
それを扱う「ひと」でなければならない。 
(この思考の側の問題は..
 やはり指導者ひとりひとりの育成に時間がかかり、
 凄く大変だ!ということかなぁ..
 ひとについては”ひととの相性”とかもあるし)


 結局私はどうも..
「方法論なりプログラムが、ひとを変える!」とは
本気では思っていないのです。

 あるプログラム/方法論が
特定のケースに対し有効に機能しているときも..
(…確かに「あるプログラムと異常に相性のよいケース」というのも、
 居るんだろうなぁと思うときはあるにはあるのですが)
 でも大概の場合には
「それを扱う主体(個人)が、
 たまたま ひととして/職務上 有能であるというだけでは?」
という風に、見える。

 経験を積み、常にある程度の客観性を保てている臨床の専門家は、
(私が思うに)大概はその種の理解を、
当然のようにしているのだと、これは経験上認識しています。

 工場で自動車とかプリンタとか、
「同じものをひたすら」作っているなら、
それはそれでその方法論とかプログラムとか統括システムとかの
作成から一般化の過程..
皆がプログラムに従い、その通りに動くことについて
相応の意味はあるのだと思います。
 一方で療育が対応するのは、
ひとつひとつがカスタムメイドの「人間」なわけだし..
であるならば、そこでは常に
対応者の「ひと」である部分が強く介在していなければならないし、
そのほうが自然だ、とも思うのです。

*ここまでツラツラ書いてみて..
 学生のときの私(の思考法)であれば!
 (*当時の私は臨床領域にさして興味はなかったけど)
 「ひとではなく!
  技術が/方法論が/プログラムこそが! ひとを直す!」
 という思考に..思いっきり魅力を感じ、
 すごくハマっていただろうなぁ(笑)
 ということに思い当たりました。


 やっぱり..

 謙虚さって、大事だと思うのです。
私が言うのもアレですけど(笑)

 謙虚さを欠いた方法論、
「問題」そのもの
(ここでは「人の発達」..それは突き詰めれば「自然そのもの」)
への敬意を欠いた対応というものは、結局..

 私の経験から言えば、
長いスパンで見れば「上手く機能しない」と思います。

 技術や方法論は、
その限界を知るものが使うときにこそ、
初めて意味をもつのだと思います。

standpoint

理想の?合宿

  • 2012/01/08(日) 23:41:43

 今年は(今年から?)
年の初めの大仕事として、年度二度目の合宿に。

 実施前は..
正月ボケでなかなかテンションが上がりづらいのがアレですが、
意外にこの時期だと、実施直前に体調を崩すひとも出づらい感じだし
(*一部例外あり。まぁ年末年始は激しい活動こそ控えめになるものの、
 脂肪やコレステロールは蓄積しやすく、そうなると免疫機能が低下し、
 それはそれで体調を崩しやすいというストーリーもあるそうです)
やればやったで、それなりに楽しく実施できるものなのでした。

 寒さについては..
前の職場に居た頃に私が一番最初に実施した(多分2006年の)、
療育関係の合宿は2月頭の実施で..
これは(場所も場所でしたけど)全編しみじみと寒かったものですが、
今回は基本的に寒さを感じる状況は少なめで、実施できました。
 初日は屋外での活動メインでしたが、
アスレチックライクな活動を経ると、むしろ暑いくらいで..

 今回の参加児は4名。
総勢で12名と、こじんまりとした規模での合宿になりました。
まぁ上記の初合宿では(児が)5名、
クリップ初となった2008年度の合宿も5名なので、
「初めて」としてはこんなものなのでしょうね。

 そしてその規模は..
実施責任者としては本当に楽!なのでした。
4名に対し指導側が4名だと、とにかく余裕がある。主として心理的に。
活動の合間合間に心底まったりできる時間が持てるし、
事務仕事で皆と離れていても、かなり気楽な気分でいられる。

 裏を返せばここ数年の合宿では
全然そういう(心理的)ゆとりがない!
ことに、今回大いに気づかされたのでした。

 食事や着替え、お風呂や就寝対応などの
身辺自立のチェックも、個々のケースに対し
じっくりと時間をかけて取り組むことができる。

 実施側としても「きちんと見ることができた!」
という満足感が得られるのです。それが嬉しい。

 夜の懇親会は..
序盤は(いつも通り)グダグダな展開でしたが(笑)
終盤は(…いろいろな意味で)
少なくとも私の期待水準を遥かに超えて
深い/深刻な話が展開し。
その辺りについては、個人的には
未だその評価を定めかねているところではあるのだけれども、
…とりあえず「今回の実施対象児の特性に応じた、
 今回の合宿でなければ成立しない」ような展開に、なったのでした。

 と、
いいことづくめの合宿と言えなくもないのですが
(二日目の朝、児が1名体調不良で早退になったのは、残念)

 まぁ経営側からすると、深刻に思うようなところもあったりで(笑)
いくらなんでもアカを出すような仕事の廻し方はしませんが、
この規模の活動で、これくらいの人的資源とエネルギーを注ぐと..

 事業としては、なんか大変な感じになります(笑)

それは途中から
これは合宿ではない、職場の慰安旅行なのだ
と自分に言い聞かせようかと思うほど、なのでした。
全然慰安になってないけど。

 まぁ..
児に対し手厚い対応ができればできるほど
「実施側の満足度」というものも高くなる。
それは今回の経験から学びとれた事実なのですが
(利用側も当然そうなるのだと思う。
 真面目な話、今回の「合宿のコストパフォーマンス」は、
 これまで実施した全合宿中でも最高であろう)
その分「予定調和しやすい」。
(今回はスケジュールもほぼ完璧に守り切った)

 合宿中に達成させたいこと、
児や保護者に対し期待していることが実現しやすい。

 それは基本的に良いことなのだけど
(特に安全面の管理を強く意識する側としては)、
一方で予想外の出来事によりもたらされる、
新たな知見や、その本質的な面白味というものに
出くわす機会は少ない、と言えるのかもしれません。

 まぁ私は、こと合宿については絶対に!
安全を最優先したいですけどね。


 今回、クリップとして5回目の合宿では、
そういった意味で..
「合宿の理想的な姿」というものを
垣間見ることのできる貴重な機会となったのでした。

 やっぱり合宿は楽しい!し、
学ぶことも多く、仕事的には常に意義がある!

 その認識は今回もいつもと変わらず、なのでした。

初日

相模湖駅にて

グループ

合宿先にて