印象を変える

  • 2012/03/29(木) 23:59:43

 冬の夕食には専ら鍋を作って食べていましたけど、
春を控えたある日、も少し大きなシチュー鍋を新規に買い込んで、
シチューだのポトフだのそんなようなものを一度に多めに作って、
1週間弱はこれを立て続けに食べる日々…。
 まぁ私は食に物凄い関心がある方じゃないし、
同じものを食べ続けても、結構平気なのです。家では
(以前..学生時代の一時、一人暮らしをしていたときよりも、
 料理する機会が多い。それも自分では不思議なことではあります)。

 で。
小さい頃から嫌いだった食物のひとつであるところの
タマネギが..最近どうも結構美味しい?
と感じていることに気づく。
サラダとかで直接的に食べるのはまだ苦手だけど、
シチューとかに入れる分には充分食べることが、できる。
多分入れたことでおいしくなっていることも実感できる。

 まぁ幼少期の私の味覚というものは
とにかく相当に過敏だったようで、
それで嫌いになった食べ物
(その筆頭は梅干し。あの強烈な酸っぱさの
 ファーストインパクトは今も苦い記憶として処理されている。
 とにかく味覚が統制できていない時期には強い味は全て苦手だった)
を長いこと..そのイメージのままで固定させていることは、
結構あるのでした。

 別にそういう「食べて不味かった/味が強烈過ぎた」
という体験でなくても
「食べた直後に嫌な思いをした(食あたりとか)」で..
今も苦手な食べ物は結構、あるのです。
敢えてあげませんけど。

*最近「そういう状況が発生/固定しやすい児」というのが
 ケースの中に複数居る事を知って、
 やっぱりそういうことって(自分以外にも)
 あるんだよな!と再確認した

 話をタマネギに戻しますが。
味というよりは食感のレベルで、
ここまでの人生においてほぼ一貫して嫌いだったのですが、
数年前..とある小説を読んでいて
(私は小説で登場人物が食べ物を食べるシーンを読むのが好き。
 そういうシーンを読むために本を読み返すことも、よくある)。
肉と一緒にまるご刺したタマネギをそのまま串焼きにした..
実にワイルドな料理の描写が妙に美味しそうで
(*中世ヨーロッパ辺りを舞台にしている)、
しかもそれが結構何度も出てくるそのどこかで、
(そこでタマネギを「甘い」と表現していたのです。
 私は「甘い..かぁ?」と読みながら何度も思ったものですが)
…私の中にあるタマネギへの印象が
甘い??美味しいものに変化したのかな、と思えたのでした
(勿論一方で私の味覚が安定したという事情も、ある)。


 私の感覚では、
発達障害の状況においては(感覚過敏もあるけど)
”フィードバックの弱さ/悪さ”
というのは基本条件としてどうしても有るのであり、
(それはこの場で何度も何度も形を変え述べてきた通りに)
それを言いかえれば
「状況の変化に応じて自分を変えることが不得手である」ということ。
 それ故に、ひとたび何かに対してある印象を抱き、
固定化させてしまうと、その印象を状況の変化に対応して変える
ということについても、かなり!不得手であるということになる。
 それを変える必要がある!と自分で分かっていたとしても、
その印象を実際に変えることには、困難がある
(まぁ誰しもそういう作業を容易にこなせるわけではないとは思うけど、
 その困難の度合いが違う/より強烈で可変性に乏しいという感じ)。

 そうした事物に対する自身の印象を
(特に不適切なマイナスの印象を!)
打ち消したり、受け流したり、
変化させたりして対応するという作業は、
個人の適応に際し、かなり重要な行動なのでは、と思っています。


 そういった「印象を変える」
作業に資する要素として
私なりに重要な要素であると感じるものの筆頭が
「言語能力」なのでした。


 言語は、
他者とのコミュニケーションの道具である一方で、
自身の思考に際して用いられる最良の道具でもある。

 …以前に書いたかも、なのですが..
私が「自分の思考の大部分が、言語によって為されている」
ことに気づいて心底驚愕したのは、小5のとき..
塾で国語の授業を聞くともなしに聞いている最中でした。


 言語を高度に統御することで、
自分の思考、ひいては行動もより高度に制御することが可能となる。
というのが、私のここまで生きてきた上での実感です。
 ”印象”という、
心の中にある..何かモヤモヤした捉え難い心象を、
捉えて、掴んで、捏ねたりして”形を変える”
作業をするのに用いるツールこそが、
「言語」なのではないかな?と。

*最近の個人的お勉強のテーマは
 「統合失調症状況における認知や思考の特性」
 なのですが、統合失調の状況における
 言語の..特殊な変化なり変質のエピソードを幾つか把握したときに、
 個人的には上記の観点において凄く納得いく部分が、あった。
 その辺については本筋でないのでここでは詳述しないけど。


 更に「言語的に状況を理解する」
という作業を、より高い水準で行うことで、
様々なストレスを処理(軽減させるとか)
することも(ある程度までは)可能になる。

 またひとたび生じたある対象への印象/イメージというものを
「変える」作業を行う際にも、
当人の持てる言語能力というものを最高に駆使する必要がある、
と私は思っています。
 「言語」という思考の道具を、
より深い水準で操作するために、
当人の読書量とか他者とのコミュニケーションの総量とか..
「言語的な体験」の総量と、それに対する思考錯誤の経験量
(勿論それに加え、それら言語的体験のも、大事ですけど)
が、大きな意味をもってくると思うのです。

 …じゃあ言語的に優れた人間が皆、
ストレスコントロールや
自身の(様々な)操作に長けているかというと..
私は、自分自身については
(自分の..”それなりにコントロールされた状態”を鑑みるに)
実感として「そうである」と、これは結構力強く言えるのだけど
(*実際にはそうでもない事例も多々ありますよねぇ。
 上記お勉強に関連して:
 某超有名国民的作家の事例など、
 統合失調のような特異な状況の中で成立する、
 ひとのある種の”際立った文学性”というものも..
 結構世にあるのだなぁと最近思うようになった)。
…まぁこれについては、
大枠では「そうである」と認めてよいと思いますけどね。

 
 そういった感覚が自分の中にあるので、
個人的には仕事の中で関わる児たちの
言語能力における諸状況
(語彙とか文法とか、その他言語におけるセンスとか..
 抑揚やピッチや発音なども含め)、
その領域の発達過程というものについて..
かなり重きをおきつつ、日々眺めているのです。

 言語/コミュニケーションの発達は、
単に他者との関わりにおける適応の水準を上げるというだけでなく、
セルフコントロールと、
今回ここにあげた不適切な印象の操作と制御においても、
とても大きく関わっていると、私は考えています。

   
 何か不適切な認識や行動について、
それを「我慢する」よう強制するような指導の在り方も、
私は結構大事と思いつつ日々実践していますけど、
その一方でのこうした働きかけ:
児の印象を制御することを目的とした
言葉かけ/児へ投げかける言葉の選び方 というものも..
大事だなぁと思います。

 特に言語/聴覚処理優位の傾向にある児に対して、
投げかける言葉を選ぶことの大切さというものは、
最近特に重要な事項として、認識しています。
 実際ほんの少し言葉の選び方、使い方を変えて接するだけで、
児の状況への制御(事物への印象の抱き方も含め)
状況が一気に変化するようなことは、
…仕事上でも結構目にする機会が多いのです。

 こんなことを考えているときに、
読む本や見る映画の中で聖書が扱われていて

「はじめに言葉(ロゴス)ありき」

とかいった言葉が持ち出されてくると..
(実際今日も偶々そんな日だった)

「..凄い(透徹した)認識だよなぁ」と思うのでした。

印象を変えるイメージ

病院にて

  • 2012/03/17(土) 23:38:13

 先日、花粉症関係で
近隣の耳鼻科に行ったのですが。

 診療台で何かすんごく暴れて叫び、
猛烈に拒否している児がいる。
看護士さんとお医者さんと母親とで
それを必死に抑え込んでいるのだけど、
それについても相当に苦戦していて..

 よくよく観察していると、
児に対して実施しているのは治療ですらなくて..
どうやら鼻の穴の中をカメラで見ようとしているだけ、
のようなのでした。

 それはそれでお医者さんとしては帰すわけにもいかず、
「君が見せてくれないと、絶対返さないんだから!」
と繰り返し言い聞かせていました
(私もその対応は正しいと思う)。

 その後。
しばらくして出てきた児を見ると小学校低学年?(2-3年)くらいの..
知能は通常程度と思われるけど、
まぁ..ちょっとは何かあるかなぁという感じの子でした。

 母親はぐったりついでに
かなりバツの悪い顔をしていたのだけど、
当の本人はいたってケロっとした顔をしていたものでした。


 感覚的に過敏だったりするひと/児にとって、
その手の”敏感な部分”への介入が、
物凄い恐怖だったり、苦痛だったりするってこと自体は、
同じように過敏をベースにしているであろう私にも、
「分かる」ことなのです。
 あー数年前に歯医者に行って
「..死ぬかも」と思うくらい恐怖した経緯もあるし。

 でも..ここ耳鼻科なんだよなぁ(笑)
それも検査或いはそれにも値しない程度の対応で、
そこまで拒否的な態度に出てしまう、
或いはそう出ることに対して
何らの躊躇いも後悔も、他者への気遣いも無い、のでは。

 
 結局、児にとってイヤなこと、拒否的であることを
周囲がまぁ..カウンセリングマインドだか何だか
安易に受容する/受け入れることの問題って、
こういう場面でこそ!顕在化するんだよな、と思ったのでした。
(児のすることを笑顔で受け容れ、
 眼前の児に気に入られることは、
 まぁ..仕事として気持ちのよいことなのだろうけど)

 これが他の..
まぁ許容できる場所での拒否なら、
それはそれとしてよいのだろうけど、
今回のように、或いは今回以上に重大な意味をもつ場面において、
医療機関で医師が要求する動きに応じることができないというのは..
 本当にハードな(医療的或いはその他の)対応を要するときに、
その(拒否的)動きを普通にされてしまうと
それは本当に、洒落にならないくらい、
困ってしまう/他者を困らせる ことになる。
そして場合によっては、
そのことが命に関わる危険なやりとりにまで発展する可能性すら、ある。

 ましてやその..
「他者を困らせる」ことを、
全然何とも思っていないというような個人の適応の仕方自体、
私は個人的にすんごく嫌い、なのです。
少なくとも自分の中に、そういう動きを許したくない。
(まぁ実際には私だって、いろいろと他者を困らせているのだろうけど)


 結局、
児にとって(児の都合で生じる)イヤなこと
(偏食とか。アレルギーなら仕方がないとしても)
を周囲の大人が..
大した哲学も見通しもなく許容してしまうことは、
いずれはこうした、面倒な問題場面に繋がってしまう。
 いわゆる”受容型”の発達相談なり指導も同じく、
その辺の思想を抜きにして大した覚悟もなく
(まぁ当の相談者や指導者は、児のそういう..
 クリティカルな問題場面に立ち会わなくて済むしねぇ)
日々児に接していれば、
それはこの種の問題生成について、
結果的に加担していることになる。


 このような問題は、
私/クリップにとっては、
個性でもなんでもない、単に「迷惑な個人の資質」なのであり、
その辺りの逸脱については、きっちり変えておかないとね!
という領域なのでした。

 
 一方で
本日偶々読んでいた本に書かれている発想:

「日本には、特有の社会的心性が根強く存在している。
 日本人は集団から逸脱した意見を持つものを好まないし、
 群れから離れた存在を無視する。
 さらに集団で徹底的に痛めつけ、
 精神的に追い詰めることにも容赦がない-」 

 岩波明.2012「心に狂いが生じるとき」新潮社 
 p249 l7より抜粋

 こういう観点を嫌う著者の感覚についても、
個人的には大いに頷けるところもあるのです。
 (しっかしまぁ..こういう心性を維持させつつ
 終身雇用とかその他親方日の丸な雇用形態なり
 それに準じる社会の在り方をなんとなくワヤにしようとする
 今の社会の流れというのは、
 基本的にやっていることに無理があるのだよなぁ)

 私自身組織とか、いわゆる普通の生き方から、
逸脱しちゃった存在だという認識も..あるしなぁ。 

 単に逸脱行為をしたというそれだけのことを否定したり、
感覚や価値観の逸脱を非難してはいけない、とは私も思う。

 じゃぁどのような逸脱を、どの程度認めるのか、認めないのか?
それはある程度は個人の感覚に委ねられるべきものだろうし、
現在の「一般的な」社会的規範なり常識なりに
照らして検討しなくてはいけないものでも、あるのでしょう。

 個人的には、
できること:「努力したり我慢すれば、できる」程度のことを!
しない/したくないと口にする個人の在り方というもの、
これを起点として生じているような類の逸脱については、
これに不満や問題意識を感じているようです。
勿論その際だって「努力や我慢にも程度がある」
ということにはなるのだろうけど。

 それを備えていることで周囲のひとあるいは当人自身が
困るような、個人の資質なり感覚なり考え方を、
安易に「個性」と評して受け容れてしまうことは、
私はいかんよなぁと思うのです。

 そうした特性については、今時だとまぁ..
周囲の大人にしたところで、
それを指摘したり修正することに
「めんどくさい」と感じてしまうような状況も、
或いは多いのかなぁ、とも思います。
(私だって、仕事を離れてその辺の子に対し
 どうこういうようなことは、基本的にしない。
 今回の耳鼻科の子については、見ていて少々..
 なんか言ったろかという気分に、意外にも、なったのだけど)

 むしろそういった..残念な風潮の中でこそ、
私の仕事が成り立っているのだとしたら、
それはやはり、少し残念なことではあるなぁ。


 私は「我慢」って、
ひとがある程度適応的に生きていくに際して、
非常に重要な資質だと、思っているのですけどね。
 
我慢イメージ