なぜここだと..

  • 2012/04/28(土) 23:41:47

なんとなく今月辺り、
いろいろな場所で幾度となく聞いたフレーズ:


「なぜここ(クリップ)だと、うちの子は、
 (他の場所での際よりも)
 聞きわけがよい/その他総じて適応的な行動をとれるのか?」


 まぁ、そうなのだろうなとは思うのです、私も。
クリップでとれる動きを、児が日常を送る他の多くの場面で
とれているとは、正直まるで思っていないし。
 それが児の理解への(現場との)ズレに繋がるかというと..
そういう状況が皆無とも言いませんが、
大概は私の中でその種の修正は行われているので、

「クリップでこの程度だと、
 学校/幼稚園ではこの程度なんだろうなぁ」

 と思いつつ、児を眺めていることになります。

 反応般化の観点でそれでよいのか? と言われた場合でも
(*正面きって言われたことはないですけど)
やはり私は、「それでよい」、
「ここでは数割増しという認識のままで、よい」と思っています。

 知能検査を、あくまで児の適応の指針として取る際には、
「その反応や結果から引き出される能力の最低の水準をもって、
 児の一般場面での適応と想定しておいた方がよい」
というのが一般的な認識だと思うのです。
行動の水準に波があり、それが大きい児の場合、
その波の低い位置に児の評価基準を置いたほうが、
現場レベルでの対応ミスが少ない。
 それはそれでよいのですが、

 私がここで児の保護者の方やその他の現場の方、
児を取り巻く大人たちに知ってほしいことは、
最良の条件下にあれば、
或いはそれなりにプレッシャーのかかっている状況であれば、
「当該児が本当はどれだけ、高い能力や資質を秘めているか!」
ということに尽きるのです。
(…まぁ、「したくないことはやりたくない」を
 座右の銘に据えている感じの?特定タイプの発達障害児としては、
 そうして最大能値を無理やり引き出され、
 周囲に知らしめられることは、
 「迷惑以外の何物でもない」という感じもしないでもないし、
 そういう感覚自体も私もよぉぉく分かるのですけど)

 私が思うに、何らかの発達障害の傾向を持つ児の
その大部分が、その潜在的な能力を
周囲のもっとも近しい大人を筆頭に、
殆ど全ての大人から過少に評価され、
本来子どもとして誰もが与えられるべき
能力相応の「期待」というものを与えられることのないまま、
幼少期及びその後の日々を送ることになる。

 それが私には..
到底許容できないということなのだと思います。
(これについてこれ以上述べると
”なんか大変な感じ”になりそうなので、こんなところで止めます)


「なぜここ(クリップ)だと、うちの子は、
 (他の場所での際よりも)
 聞きわけがよい/その他総じて適応的な行動をとれるのか?」

・怖いから(*怒るから)
・すげー怖いから

とか?


 真面目に答えれば
(私は相談場面でそうした疑問が提示されると、
 つい真面目に応えてしまうのだけど)

・言語指示がある程度構造化されている:
 要するに指示が分かりやすく、
 同時に意味もなく複数或いは多数の指示を提示するなどして
 児を混乱させることが、
 通常場面よりも少ない=指示や意図が通り易い


 それ以上に重要なこととして、
指導の過程ではそれぞれの児に対し、
それぞれの能力に応じた形で

・この大人は、「言ったことは実行する」ひとである
・命じられたことを行わない/拒否した場合にはかなりの確度で
 何らかのペナルティが課されると明示されているし、
 実際自分或いは他者が過去にそういう目に遭っているのを知っている

というような情報伝達を早い段階で行っているから。

 それをきちんきちんと実施していくことを
児たちが「こわい/恐ろしい」と感じるのであれば、
私はそれは全然、
..勿論嬉しくはないけどその評価は甘んじて受けると思います。

 私は上記のような関係性を
「信頼関係」と認識しています。

 信頼というと何か、好意とか共感とか..
暖かいものをイメージするひとや児が多い気がするのですが、
私の考える信頼とは、

「目の前の相手が、言ったことをきちんと実行している」

かどうかによって、測られるものだと思っています。
私や指導側がそれを児に対し日々(まぁ可能な限り)
きちんと実施していれば、児はこちらに対し、
その種の「信頼感」をもって対応できるようになる。
それが別に、好意といったものでなくても。

 とはいえ、うちでも..
私や私以上に恐れられる某指導者に..
過去にあそこまで酷いことされたのに(笑)
意外に当該者のことを「好きである」と明言する児も結構居たりして。
それは私自身も今もって意外だったりするのです。
(まぁ勿論酷いことされた→嫌い!という
 ストレートな認識の在り方というものも、別途普通に存在するわけですが)

 ただまぁ..
私も他の指導者も、
その仕事をビデオとかで客観的に観る機会をもつと、
怒る一方で褒めるべきはかなりきちんと!明確に褒めている
のであるなぁと..
(これは自分でも指導を実施していて
 殆ど無意識で行うようになっている過程なので、
 そうして後で観ないと気付かないこともしばしばなのですが。
 怒る方は実施していてきちんと把握しているのですが、
 褒める方の動きはほぼ自動化されているというか..
 やや”無個性”的な動きともいえるのかもしれません)

 そういった動きというものも、最初にあげた
児にとっての「分かりやすさ」に繋がるものなのかもしれません。

 実際各種発達障害を持つ児の指導者としての観点で
児たちの通常生活場面(学校とか幼稚園とか)を見ると..

「なんか褒めているんだか怒っているんだか、分かりづらいなぁ」

 と思うことは結構しばしば、なのでした
(勿論その種の微妙な情報提示で認識して対処できる
 大部分の定型発達児に対しては、それでいいと思うのですが)。


 某”大”先生はしばしばその著書や講演などで
「相手が自分をどう思っているかなど気にしないで済む、
 自分が自分としてありのままでいられるような関係性こそ、
 人間関係の理想」

 であるとしています。

 私も、
「それは理想であるなぁ」とは思うし、
そういう全く気取りのない関係性を、周囲の近しい人とでも
持てるといいなぁと半ば本気で思いはするのですが
(最近思うに、
 そういう事柄をいい大人が心底本気で信じている状況
 というのは..少なからずその当人が○キというか..
 精神発達的に未熟であることを示しているのではないかなぁと..)。


 ケースに、特に児当人から好意を抱かれれば、
それは私だって人として嬉しいですけど、
それとケースとの間に信頼関係を築くこととは
基本的に別の事柄である、
というのがこの領域に関する現在の私の認識ではあります。

 そういった認識を持ちつつ、
ケースに対し時に非情な、非情過ぎる対応を行い、
そうして得られるケースの反応が
当方の予想の範囲内に収まっていて!
それについて密かな喜びを感じることを自覚するようになると、
それは(笑)

 今の私の仕事の姿なのかなと思います。

 いや、まぁ、正直..
怒ることは減らしたいですけどね、いつでも。

 やっぱり職務上とはいえ、
それが仕事的に正しい/意義のある行為だと認識しているとしても、
誰かに対し怒りを向ける行為や
荒っぽい振る舞いというものは、
自分の精神を一時的にでも..
荒ませ、疲弊させるので。はい。

憎女:深い意味はないけど

5年目/新年度

  • 2012/04/14(土) 23:06:47

 2012年も4月を迎えて..

これでクリップも2008年4月の開室からまる4年を経過し、
5年目に突入します。
開始時に小学校1年だったケースが今も多く居るのですが、
その辺りの体つきやその他発達の過程を見ると、
その時間の流れというものをダイレクトに感じることが、できます。

まぁ..
よくここまで保ったもんだと、
感心しなくもないです(笑)

 開始当初の暇さ加減といったら..
今思い出しても半端でないものがありました。
基本的には職場で課題を作ったり、
紙ベースで存在していたデータの
スキャニング/バックアップをとったり、
秋ごろまでは日々そんなことをして、
ケースに対応する以外の時間を過ごしていました。
余りに暇なのでインターネットで動画
(あーゲームのプレイ動画とか)を見まくっていた記憶が..

 それでも、不思議なことにその当時は
先行きについて特段「不安である」ということはなかったのです。
まぁ1年目はそんなもんでしょ、という見通しだったのだと思います。
(逆に開始直前頃の心的ストレスは..
 かなりのものだった、と記憶しています)

 最近読んだ経理関係の本によれば、
「開始して3年間連続で赤字の事業は、
 その段階で撤退を検討すべきである」とのことで。
そんなことを当時から知らなくて幸いだったかも(笑)

 今は..
「あくまで個人事業に携わる者としての、その程度の」
安定という状況には至っているものの、
ただ..このままずっといけるのか?という不安は、
のほほーんと日々を送っているように周囲から見えているとしても、
今でも私の中には一定期間を置いて、
波のように襲ってはくるもの、なのでした。

 事業を開始するまでの最大の懸案は、
元来安定志向である筈の自分が、その種のストレスに
対処できるか? というものだったのですが、

(*最近某高知能組のケースに将来の夢を聞いたら
安定した仕事に就きたいです」と言われた。
 これも時代、ってものでしょうか?)

 これはまぁ..
「何事も慣れる」というか、
そういうストレスに対する感覚をある程度鈍麻させないと、
ひとは生きていけないし、私だってそうなってきているのだろうし、
…それはよくよく考えれば私だけのことでもなく、
ケース(とそのご家族も)や..
いや、今やこの国に生きるひとの人の多くが、
(それに自覚的であるかどうかに個人差はあるかもしれないけど)
日々それぞれなりの形で、
対処しているものでもあるのでしょうし、ね。


 今日偶々読んでいた某マンガに
・「ビールがうまいうちゃ、死ねんぞ!」
・(*場面は異なるけど概ね同様のシチュエーション下で)
 「生きててよかった 死ぬやつぁバカだ」

 というセリフがありました。
そういう身体の感覚なり快感なりに直結する
シンプルな部分だけでひとが生きていければ..
本当はそれで充分だよなぁと私も思います。ビール嫌いだけど。


 そんなことを考えつつ。
5年目のクリップとして何をすべきなのか?
どこを変えてどこを変えずに残すのか?

 といったようなことは
最近もいろいろと考えているところなのでした。
以前にもどこかで触れた気がしますが、
 継続という過程は少なからず変化を伴うもの、
なのだと私は思うので。

 とはいえやはり、
そういったことをいろいろと考える中でも、
自分の中でどうしても譲れない部分、というものについても、
自覚的でなければいけないのだな!
という考えに、今は至っています。

 事業のため、経営のため、継続のために
様々に意を尽くすことは間違いではないし、
あー完全にひとりで仕事をするわけでもない立場であればなおのこと、
他者のことを含めそういったことを真剣に検討しなければならないのは
確かなのですけど、それはそれとして!
どうして自分がこの仕事を始めたのか?
何のために今ここでこうしているのか?
という部分には真摯に向き合い
(*何せ他でもない自分のことですから)
進めていきたいものだと思っています。


 突き詰めれば、今の私は、自分の仕事について、
自分がケースやそのご家族や関係者の方に対して、
日々対応している過程そのものについて、
とにかく妥協をしたくない! 
その仕事内容に納得していたい!
という部分で日々を生きているのだと思うので..
やっぱりそこは最大限大事にしなければいけないというのが、
現時点での結論です。

 ただこの際悩んだり考えたりした以上は、
事業の何がしかの部分については、
これから具体的に変えていこうかなと考えています。
その辺はまた追々..


 というわけで、今年度も始まりました。

 関係者の皆さまにおかれましては、
今年度もどうか宜しくお願いします。

 画像は例年通り..
新規グループ名に関係するもの
 

グループ名1
グループ名2
グループ名3