試行錯誤

  • 2012/05/26(土) 23:07:04

 本ブログの意義というか目的のひとつとして

「自分の仕事上生じた、漠然とした考えをまとめる」
という側面はありまして。

 今回は正にそんな感じの話しなのです。


 検査や課題など、児が実施する際にこれを
「見通しをもって」行うか、或いは
「試行錯誤的に」行うか..

 そういう観点で児の現在の状況を見抜くことは、
指導或いは課題設定において、
職務上かなり重要なことだと思っています。
 提示する課題の難度とそれに直面する児の能力、
その双方について精確に把握していなければ、
課題学習における的確な評価は、できない
(指導者/課題設定者として「未熟である」、
 という状況下では、基本的にこの種の..
 それこそ”見通し”を事前に持たないまま
 課題を設定して児に臨むことになる。
 勿論過去の..ある時点までの私もこれにあたるのです)。


 ..某知能検査でも、
その行動記述欄に、課題の多くを
「見通しをもって行う」か
「試行錯誤的に行う」か
「いきあたりばったり」
であるかを評価する場面がありますね。

 一般的に個人の知的機能の発達上、

 見通しがある>試行錯誤的>いきあたりばったり

という高度化の順番/ランク分けで、私もよいと思うのです。
ではその試行錯誤ってどういう状況?
というのが今回の主題。


児たちに課題を実施させるにあたり、
 (*本項でとりあげるような思考の様式について検討するとき、 
  基本的には非言語的な課題の方が、
  状況理解しやすいと思われる。
  …あーじゃぁ言語過程って..
  見通し?試行錯誤?いきあたりばったり?)
すんごく試行錯誤的に、
ひとつひとつの解答のパターンに取り組み、
それがダメなら次!ダメなら次!と動くタイプの児が居る。

 私はそうした児の動きを見るにつけ
「とても”論理的”である!(時に知的な態度である!)」
と感心するのです。

 一方で..
同じ(無駄な/非建設的な)アプローチを延々繰り返す、
まるで学習せず、同じ誤りを繰り返すという在り方の児も、いて。
 同じ課題を行っているのに、
なんとまぁその効率に違いが生じてしまうのか、
と密かに感心してしまうのです。

 ある課題を実施させるとき、
おおまかな到達知能段階が同じ水準にある児でも、
試行錯誤的な児がいたり、
いきあたりばったりな児がいたり、
明らかな見通しの片鱗を示す児がいたり..
 その違いは何からくるのか?

 
・試行錯誤:
 新しい物事をするとき、
 試みと失敗を繰り返しながら
 解決策や適切な方法を見いだしていくこと
 英語だと trial & error

 ..上記、
同じアプローチをひたすら繰り返す児と、
試行錯誤的な対応、双方の動きを比較すると、
その違いは(私の中では)ある程度明確になる。

 後者は課題に直面した際、
このやり方では解決/前進しない!
という..課題に対する”見通し”を、
前者よりも大幅に早い段階
(*同じアプローチの繰り返し数の
 実数が、前者に比して少ない)
で得て、それに応じ「先とは異なるアプローチ」
に移行するのだと思われます。
(「前と異なる対応をする」ということは..
 前に実施した行動を記憶し、
 同じ轍を踏まないという類の知的作業も必要になる。
 してみればパターン認識はある程度”記憶”の過程でもあり、
 またこうした試行錯誤的思考を行う中で、
 記憶の機能を高められるという側面もあるのかな?
 という認識は、仕事上の感覚としては、ある)

 この対応が..
それこそ「パターン化」された状態が、
試行錯誤的な問題対応形式の
基本姿勢ということになるのだと思います。

 結局試行錯誤とはいっても、それはそれなりに、
見通し=基本的なパターンの認識の過程というものが存在し、
それを前提にした動きなのだよなぁと、
ここで痛感するわけです。

 
 そもそも心理/相談場面でも、
問題解決の基本、のひとつは
「(これまでの対応で解決できなかったのだから)
 これまでとは異なる対応法で事にあたる
という発想なのだから、試行錯誤の発想にしても、
それなりにというか
とりあえず「児の対応する問題状況下では」、
かなり的確な!対処であると想定できるわけです。


 ただ、児が発達すればそれに応じて
対応する問題も高度化していく。

 療育の課題設定だって..
最初は単純かつ反復的な運動だったり
机上の認知課題だったり
”対物/対課題”状況を基本としつつ、
その認識能力発達に応じ、
自然に”対人”課題設定場面が増え、
同様にその内容も多岐に/複雑に なっていく。

 思考の対象が「物」に留まるのであれば、
その物に対し選択できる対応法を、
ひとつひとつ延々実施していっても..
まぁ大概は、それほど時間をかけずにどうにか解決にこぎ着ける。
 しかし課題が複雑になると、
試行錯誤の手法だけでは、
とんでもなく時間と労力が割かれ、
「総じて非効率的」になる。

 そこで多くの場合ひとは、
発達の過程のどこかで試行錯誤の段階を超え、
事物や課題についての、
ある種の見通し(..”仮定”と言い換えてもよい?)を立て、
事にあたるようになる。
 これによって、明らかに無駄と思われる思考と行動を廃しつつ
最初からある程度正答に近いレベルで
予測を立てて状況に対処していけるようになる。
 その見通し自体は..
かなり高度で複合的なものであるが故に、
これを上記に示してきたような”見通し”と
同等のものとは扱えないかもしれないけれど..

 その見通しも、状況や課題や人に対する、
それなりに複雑/高度な
「パターン認識」を基礎として成るものなのであり。


 こうツラツラ考えていると、

「パターン認識を経ない論理的思考は、
 基本的に存在しない」

 のだなぁと改めて思い知らされるのでした。

 その知的発達の水準がかなり低い!
と評価されるであろう児でも、
大概は(その行動の細部を検討すれば)
ある水準でのパターン認識は、行われているものなのであり。

 そもそも..
(とりあえず脊椎動物に限っても)何でも、ある程度は、
その水準に合わせたパターン認識は行っているわけで、ね。


 ..あー先ほど挙げた疑問に自分で対応するなら、
言語過程もまた、「パターン認識」
の積み重ねと高度化を必要とする過程、だと思います。
私が言語指導上行っていることも、
基本的には言語の「パターンを叩きこむ/その数をこなす」
過程であるし。


・パターン認識:
 画像・音声などの雑多な情報を含むデータの中から、
 意味を持つ対象を選別して取り出す処理


 …意味! ねぇ。

 自閉症は、
(音声情報とか文字とか、表情とかいった雑多な情報から)
”意味”を見出し、取り出す過程..
或いは個々の情報と異なる情報との間に
関連(意味)を見出す作業過程に問題を抱える状況だと
私は常々思っているし、
これについては本ブログでも度々触れてきましたが。


 パターン認識それ自体が、
そもそも”意味”と近縁の過程なのですね。

 じゃぁそのパターン認識を
加速させる/高度化させるためには、
児に対しどのようなアプローチをしていけばよいのか?
..これを考えることは自閉症への対応上、
非常に重要なことのように感じられます。


 まぁこれについては自分なりの思考や実践を経て..
いろいろと考えるところはあるのですが、

 ここではひとまず
「特効薬はない!」
という認識を示す辺りに留めておきます。

 直接のアプローチが見出せない以上、
それを行動や..その他間接的な対応で、
どう発生させ、変化させていくか..


 …。
いや、ブログに書こうとして足掻いてみたら、
確かに少しは自分の思考がまとまりました。あー少しは。

 試行錯誤イメージ

伝達不備

  • 2012/05/12(土) 23:00:48

最近児たちとのやりとりの中であったこと:


(1)10歳前後の知能高い事例:
「”自分が自分のことを一番よく判っている”というのは
 一面的な思いこみであり、(情報の種類によっては)
 他者の方が(外から見えるので)
 ”自分”というものを余程よく分かるものである」
 と相談の中で伝えたら、
 帰宅して(当人の思い通りにならない状況下で)
 「お母さんが一番、僕のことを分かっているんでしょ!
  (*だからそっちで調整してよ!って意味合いで?)」

(2)中学生、標準知能事例
 大同小異という言葉の意味を聞いたら

 「劇の配役を決めること」

 ..意味不明なのですが、個人的には
 仝充造坊爐稜枳鬚魴茲瓩觝櫃法誰か(先生とか?)が
  「大同小異である」というような言葉を使った?
 ⊆書などの用例で、実際に大同小異の項で
  劇の配役云々という例があった
 のでは?と考えている

(3)10歳前後、特殊学級在籍児(複数事例)
 授業で「パーソナルスペース」の勉強をしたというので
 パーソナルスペースとはどういう意味かと尋ねたら

 「ひとにさわらないこと」

 まぁ..児に対し真に伝えたい事柄がそれであるなら、
 それはそれで指導には意味があったということになるのだけど。

(4)5歳児知能高い事例
 指導の中で児に
 「もう決して○○したらいけない」
 「もしクリップで、先生の前でしたら、
  昨年の合宿で××先生にこっぴどく怒られたのと同程度に、怒る」
 と宣言し、終了時に今日学んだことは?と確認したら

 「もう○○しない」

 「がっしゅくで××せんせいにすごくおこられた

 
 ..いずれも大人や指導側が児に伝えて
「伝えた」「伝わった!」と思っている類の情報が
実際にはそうではない形で誤って伝達されていること、が重要なわけです。

 これは..
意外に重大な問題だと私は思っています。
(4)などだと、児が年少なので
「わかりました」とか「もうしません」とか反応されても
本当かぁ?と自然に疑ってかかれるのですが、
特に年齢が高い/知能が高く、対人/対社会「以外」の領域で
とんでもない理解力を示したりする児だったりすると、
ついこちらも緊張を緩めがちというか、
スっと信じてしまいがちというか..

 その知能や知的処理能力にレンズの焦点を当てると、
社会性(のズレや理解、処理能力の遅れ)の側面がぼやけてしまう。
どのどちらにも対等に焦点をあてることが現実的に難しい。
これは軽度発達障害特有の、理解の齟齬における問題だと思います。


 言ったことがそのまま伝わっていない(事が多い!)
という辺りを..余りにも日常的に検討するようにしてしまうと、
ひととひととの基本的な信頼関係が形成できなくなるし、
上記事例に限らず、発達障害状況にある児やひとは、
定型発達児者よりも素直でウソをつかない
(*傾向が強い。個人差はあるけど)
或いは「嘘がヘタ」なひとたちなので..
(尤も、こちらが嘘がヘタ/嘘をつかない と思って舐めていると
 そのせいで思い切り彼らの嘘に引っかかることも無くはないですけど)
その辺りの距離の取り方が難しい。


 そもそもなぜ伝達の不備が生じるのか?を考えると、
やはり..
彼らが情報を理解する過程で、ある種の齟齬を
生じさせてしまうのだろうなぁと思うのです。

 以前にも発達障害は本質的には
「優先順位の設定の問題」であるというようなことを、
述べた(ような気が..)と思いますが、
提示された情報のどこに力点をおいて認識するか、
「しようとするか」によって、ひとに提示された情報や、
評価などは容易に、変質してしまうのだと思います。

 それはよく考えてみれば発達障害とは無関係でも、
理解する主体の育ち方や現職などのバックボーンによっても
容易に変わり得るものであろうし
(と、これを突き詰めて考えると、自分が「大人に対し」
 話した事柄についても、それを相手がどのように理解したか?
 それが自分の思惑とはどの程度異なるのか? 気になってしまう羽目に。)

 ..難しいですね(笑)

私が仕事の中で誰かに対し行ったアドバイスが、
その意図とは別の部分に重心をおいて理解されてしまったり、
それ以上に誤解されて解釈されてしまったり、さらに
その誤解された情報が一人歩きして他者に伝わってしまったり..
しているのであろうか?と悩むと、アドバイスができなくなる。


 一方最近読んだ本では、この種の事柄について..
これは「知る」と「分かる」の違いである。
自閉症等発達障害をもつ児は
物事を「知る」だけで、分かることに容易に対応しないので
結果的に理解に躓きが生じる、としていました。

 その具体例として幼稚園児が園服を着て通園していたが、
(4月からなので最初は冬服だった)夏服に切り替わるところで、
物凄く抵抗した。児は園に行く際はこの服を着ると「知った」が、
これについてそれ以上の学び(分かること)を
シャットアウトしてしまった..

 
 確かに、そういう側面もありますね。
物事が一対一で限定的に対応されてしまい、
ひとつの学習された事柄が、
他の学びに容易に転用されない、堅さ。
まぁフィードバックの悪さ、とも言えるのですが。


 もうひとつ。

(4)の児を指導する中で、
 きみのよいところはどこ?と聞いたら

 「ともだちの○○くんが、
  ゴーバスターズ(*現在の戦隊ヒーロー番組)
  のレッド(の本名)は、なに(*苗字が)ヒロムか、
  わからなかったら、
  ぼくがすぐ”サクラダだよ!”っておしえてあげた 」

  …そうだね。
 ほかにきみのいいところは?

 「○○くんが、ごごにまたきいてきたから、またおしえてあげた」

 …。
 「やさしい」とか「まじめ」とか「かっこいい」とか
そういう類の発言を密かに期待していたのですが。

 私は自分のことを”かなりの行動主義者”だと思っているのですが、
彼はそれを遥かに超えて徹底した..
実際に為されたことについてのみ述べる、
真の「行動主義者」なのだよなぁと思いました。
(*ワトソンとかスキナーとかはその辺、
 ”どう”だったのでしょうかねぇ?)

 実際彼に放映された上記番組の内容(*私も見たので検証できる)
について説明させると、その中で行われたこと、話されたこと、
総じて「事実関係」については
ほぼ正確な理解が為されているのに(*彼の知能は非常に、高い)
個々の場面で登場人物がどう感じたか?どう思ったか?
これについては問うてもまるで理解できていない
(それについて応えられなくても困惑するでもない)。

 つまり、提示される情報の中の、心理的な部分、
社会的な相互作用が生じている部分についての、
認識(情報処理)が思いっきり欠如している、
そんな状況で提示さえた情報を理解し、咀嚼し、
反応したり発言したりしないといけない。

 そういった状況というものも、
伝達の不備に繋がる重大要素なのではないかと思っています。


 力点の補正も、分かることの弱さも、心理的情報の把握も、
どれも直接的な解決策は、無い と思っています。
どちらも発達障害を関わる中ではかなり遠大な..
到達すべき「目的」そのものなので、
これらについては、
日々の注意深い関わりの中で、少しずつその状況について理解を深め、
その都度修正していくしかない。


 一方で(4)の事例が正にそうであるように、
説明を与え相手が「理解した」と反応した時点で
こちらから「何を理解したの?」と問うことをある程度習慣化することで、
相手の理解力とその特性(上述した力点の傾向)、社会性の水準も
測ることは、できる。

 そういうこともあるので、
活動の最後にまとめを行うことを習慣化することは、
私は意外に、大事な作業だと思っています
(ケースたちは..ウチではともかく、
 学校等での長時間に渡る「帰りの会」
 を嫌う事例が多く、それはまぁ私も実にそうでしたけど)


 ま、相手が定型発達でも大人でも(笑)
これを丁寧に行えば、互いの理解の齟齬、伝達の不備は..
軽減はするだろうなぁ。
一方で信頼関係は確実に、損なわれる気がするけど(笑)

 信頼って..大変ですね(笑)
信頼する「フリ」も上手くできないと、
他人と仕事なんてできませんわな、そりゃ。


 更に、年齢の高い、知能の高い児について言えば、
こちらから提示した情報について、それを(こちらの観点で)
明確に優先順位を付け、要約した文書などを説明に添えることで、
ある程度改善が図れるかなと思っています。


 個人的には講座とか実施したあとの感想文を読むと、
それを書いたひとの理解の水準や力点の在り方を、理解できるというのは、
経験的に感じています。

 今後某所で定期的に実施していく予定の専門家向け研修会でも、
その辺りのフィードバックをマメにしてみようかなと、思っています。

伝達イメージ