自閉症と視覚障害

  • 2012/10/31(水) 23:20:37

 この10月下旬は..実に10年以上ぶりに
食中毒或いはそれに限りなく近い症状を起こして
ぶっ倒れてしまい..
大いに仕事の枠組みを乱してしまいました。

 以前(10年以上前)の原因は生牡蠣..
その際はとにかく凄まじい腹痛と下痢の症状だったので、
以後も絶対生牡蠣は食べられない!という心理に至った次第ですが。
(どうでもいいけど食中毒になると”嗅覚が変わる”気がする。
 通常はどうでもいいものの匂いに過剰反応したりすることがある。
 パン屋の匂いを嗅いで嘔吐を催すとか..
 今回もそんな変化はありました。
 しんどい中でもそれはそれで面白がっていたり。)

 今回はそこまで重症ではなく。
症状も上記ほどではないとはいえ、やはり
発症から嘔吐→下痢(発熱はなし)のサイクルに至った際の
慢性的な腹痛のしんどさと空腹
(身体に食物を通すと生じる痛みへの恐怖から、食べられなくなる)
 と脱水症状等からくる意識の混濁(笑)、
総じて自分の無力さを痛感させられるままひたすら寝続け
(後半は本を読む余裕が出たものの)
仕事的には都合3日分の仕事をお休みさせて頂き、
各方面に大変ご迷惑をおかけして、
完全回復まで都合5-6日を要する..

 まぁ大変でした、実際。
今回発症した日に新たに学んだこと:
「”相談中に吐き気を催す”と、なんか..本気で○にたくたる」
職務をそういう..どうでもいい感覚に乱されるのは、
本気で辛いなぁと思います。風邪とか発熱の体調不良はまだしも
「(相談)能力の微弱な/想定内での 低下」
程度で済むのですが、吐き気は流石に..
 
 仕事を休むにあたっては、
その時々に個人的にとんでもなくいろいろと
複雑な葛藤があるのですが、
(それが単純に「自分にとって屈辱」なので。
 前の職場でも休んだことなど、
 明確なものでは一度。クリップ以後でも2度しかない。
 でもその2度とも今年というのは..
 やっぱり体力的にいろいろあるのかも)

 結果的にその日ごとのお休みの判断は
後で考えても全て正解だった!と自分で思えるので、
今回はまぁよしとします。

 プロとしてはその種の判断も正確にせねばならないし、
平素から自分で自分の体のことを
きちんと把握できていないといけないし
(*という話を上記とは別の文脈で、今日の相談で話した)


 ただ復帰後はうってかわって妙に体調がよく(笑)
本日1週間ぶりにジムに行ったら、
休んでいたのに筋力も低下しておらずむしろ好調で、
先日述べた

http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-301.html

かつては「ありえないくらい困難」と規定していた運動課題を、
考え事しつつ気づいたら殆ど疲労を感じぬまま終えていたり。
(そういうときは大概課題設定とか、
 ケースの前後の相談内容を検討したりしている)

 まぁ..いろいろと身体に溜まっていた毒素が
この件でいい感じに抜けたのかもしれません。
体重も減ったし(減った分の半分程度は既に戻ったけど)。



 本題。

以前勉強会で「自閉症」について話すために作った資料

 http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-258.html

を、先日某所で概ねそのまま使って仕事をしてきたのですが、
その際に考えたこと。 

 ウタ・フリスは

 「自閉症は一生変わらぬ“障害”であり、
 症状が消えれば治ったと看做す風邪のような”病気”とは異なり、
 むしろ視覚障害に似たもの」
 (ウタ・フリス.1991「自閉症の謎を解き明かす」東京書籍)

 と述べているのです。

 自閉症が「病気」ではなく、治るとか治すものではない!
というのはまぁ”基本的過ぎる認識”なわけですが
(勿論治るとか治すとか言う”専門家”も世の中には大勢居て、
 その言葉に魅力を感じてしまうひとたちも、当然大勢居る)

 それはいいとして、
フリスは何故にそれを「視覚障害」と例えたのだろう?

と、先日上記資料を引き合いに出して
某所で講義をしている際唐突に(笑) 思い出したのです。
というか..最初にこの資料を使ったときには自分なりに
その答えを見出していた筈なのに、
その際にはド忘れしていたのです。


 何故障害の中でも、それを”視覚”障害としたのか?


 「障害」であることの本質は、その原因要素
(器質的な異常など当人のもつ”機能レベル”での問題)が、
基本的には治療や交換が不可能であることと永続的なものである、
と想定されているということなのだと思います。 
故にこそ障害に対し、治るとか治すとかいう言葉が当てはまらない。

 ..それが先天的なものであるか後天的なものであるかは、
この際特に問題にはならない、と思います。
自閉症はともかくとして、感覚器レベルの障害や身体障害などは
後天的にも起こりうるものだし。

 ただ自閉症が..
そうした身体障害という感覚で捉えづらいのは確かでしょうね。
実際基本的にはそうしたものではないと思うし。

 一方で感覚器レベルでの障害(機能不全)という捉え方は、
個人的には大いに理解しやすい。
 私が自閉症を共感的に理解しようとする際のとっかかりは、
基本的に感覚の異常(特に過敏)反応であることが多いので。
(しかし「感覚過敏や異常は、それ自体は自閉症の診断要件には
 含まれていない」!ことに注意。私も偶に忘れる)


 視覚障害..

全盲か弱視かは別にして、
自閉症という症状を有する児やひとについて、
定型発達の人の間では基本的に処理されるような
ある種の視覚情報が「処理されない」という状況は、
確かにあるのかもしれませんね。

 その多くは勿論、視力や注意力の問題というよりは、
目にした情報に意味づけをするレベルで「処理されない」
ものなのだろうけど。 
例えばボディランゲージとか視線とか表情とか..

 定型発達のひとが日常的に処理している様々な、
実際には実に微妙な筈の..情報を、
「見えない/見ていない」
(実際には「処理していない」)という辺りでの
定型発達者と比較しての「情報量の欠損」というものを捉えて、
フリスはその時そう述べたのかもしれないなぁと..

 今日ジムで思い出したのでした(笑)

 勿論、暗黙の了解とか、心の声的なものが
「聴こえない」という意味で、
それを同じくらいなんとなく「聴覚障害のようなもの」
と述べても、それはそれでよかったのかもしれないけど。

白杖

変える

  • 2012/10/22(月) 23:48:13

10月も上旬を過ぎてようやく!
”よい気候”に..
ただ生きているだけでダメージを食らう類の暑さも
一段落したような気が..

 それはそれとして当方は相変わらず忙しいし、
個人的にそれ以外でもいろいろと忙しくて..
最近はきちんと仕事を振り返るに際し、
その気力が!なかなか湧かないのですが。


 先日某所で..まぁジムなんですけど、
ジム通い当初からこれはできねーだろと個人的に思っていた、
トレーニング(の、まぁ負荷とか負荷の掛け方とか頻度とか)
を..やむにやまれぬ事情で行ったのです。
 端的に言えば「次の予定が入っていて時間がない」ので、
通常は休み休み実施する運動課題を
全て一気にノンストップで実施してしまった、のでした。
 勿論その結果として壮絶に疲労したものの、
それはそれで、できなかったわけではない。
実施後の心境も..正直悪いものではない。

 で、その数日後とか数週間後とかに、
同様の事情が生じたときには、
それほど気負うでもなく、
再度同様の負荷をかけりゃいいじゃんという結論に至ることができる。

 これは私の行動上における「変化」と言えるのだと思います。

 一度特定の行為が「実施できる」という経験がもたらされ、
それに応じて個人の意識が変化すれば、
当人の課題に関する見方も変わるし、
一定の余裕をもって(辛いけど)課題に向き合うことも、
可能になる。

 
 結局のところ療育が児(と、保護者の方)に求めているものは、
この種の変化なのだと思います。


 やる/やらせる ことが辛いし、そもそもできない!
できるわけねーよ!
 という心理状態にある児その他の当事者の心境を
如何に効率的に、まぁ「適応的な」方向に変えていくか。

*私は大人ですが、それでも上記のようなチャレンジを
 日常的にこなせるわけでは多分、ない。
 日にひとつなんてとんでもないし、週にひとつくらい..
 行動や意識を変えることができれば
 人間として結構上出来なんだろうなと思っています。


 「自分で自分を環境に合わせ調整できる」、
というのが暫定的な大人の定義であるとすれば、
子どもは勿論自力ではそれはできないし、
殊に発達障害の状況にある個人が、
それに向き合うことにはとんでもない規模の..
覚悟なり蛮勇なりチャレンジ精神の発露が、必要とされるのでしょう。

 何せ彼ら(とりあえず不適応を示している発達障害を有する者)は
その種の..他者によるフィードバックを最大の苦手としているし、
正にその苦手さによって、不適応/発達障害と規定されるのだから。

 
 で。自分を..
自分の行動や意識の在り方を、
周囲に合わせて変えるのは簡単ではないし
好きなわけでもないというかむしろかなり嫌い!私が、
上記それを為した状況を考えると..
自身によって行われたとはいえ、やっぱり、
(状況によって)「強制されて」踏み込んだ、んだよなぁおそらくは。


*行動の変化に際し、変わったのは意識なのか行動なのか..
 どちらがニワトリでどちらがタマゴなのか?
  私は”概ね行動主義者”なので、
 この疑問には基本的に「行動が先でしょ」という立場。
 「悲しいから泣く」<「泣くから悲しい」の側。
 そのため、児を指導する際もとりあえず行動を変えさせて!
 その変えた結果を児に意識させ、意識そのものの変化を期待する。
 或いは先に述べたような..
 「強制されたにせよ」やり遂げたこと、やり遂げた自分をみて、
 結構悪い気がしないなぁという心理状況に
 ひとまず当人をもっていければ、
 それはかなりよい展開なのだと思っています

*20年近く前に読んだ某伝奇バイオレンス小説(笑)で、
 もんの凄く頭というか精神力を使う立場にある登場人物が、
 職務上自らの精神を鍛えるにあたり
 「とにかく身体を鍛え、身体の制御機能を高める。
 それが精神の制御にも繋がる」
 という感じのことを述べておられました。 
 それを読んだ私が..
 即座に身体機能の強化に走らなかったのは確実ですが、
 それはそれで「そうだよなー」と妙に感心したものでしたっけ。


 子どもが、不適応的な側面をもつ発達障害を有する個人が
(*一方で「適応的な発達障害の側面を優位にもつ」個人は、
 多分環境に強制された事柄に対し、
 これに強烈に従い強烈に遂行してしまう。
 おそらくはし過ぎてしまう。それによって当面は「適応する」。
 それはそれで、後々心理的に面倒なことになる気もするのだけど。
 要するに何事も度を過ぎれば毒なのです)
フィードバックを..自身を変えることを嫌うのであれば、
やはりそれに対し、
指導の観点では「強制する」関わり方が必要になってくる。
 勿論この個人の動機づけの辺りを弄って
それで当人が自発的に課題に向き合えればそれはそれでよいのだけど、
実際にはそれが容易でないことが発達障害の部分なのであり..


 強制され他者に自分の行動や価値観を変化されることは..
やっぱり嬉しくないことだよなぁと思います。
私だって他者に何かを強いられるのが大嫌いなので(笑)
 
 でもそれが..児(や保護者の方の)の当座の適応や
希望する将来を検討する中で必要と判断できるのであれば、
それをやって、必要なだけ/最後まで 
やり遂げるセンスというものも、
指導者としてはどうしても必要になってくる。


 現状の私は、そんなことを思いながら
(仕事である以上)そこで”意味のある”強制を行って、
そこから児に”意味のある変化”、
適応的な変化をもたらすことを意識しつつ、
仕事をしているわけです。


 ..尼崎の事件などはそれなりにきっちりした
「日本っぽい洗脳」というものが扱われている事件だなぁと
個人的には思うのです。
アメリカとかだと、
とりあえず自分で○っちゃう方向に走るであろう
サイコパス系のひとが、
日本だと「他者に○らせる」方向にシフトしていて、
それが実になんというか日本的だなぁとしみじみ思うのでした。
あくまで個人的に。


 やっぱり療育も..教育だって!
「洗脳」というもののひとつの形ではあると思うのです。
(より正確に言えば洗脳という関わり方の要素をある程度有するもの、
と言う感じでしょうか..)
 私はかねてよりそう思っていました。
誰かにある価値観を押し付けるという側面を全く欠いた、
療育や指導は多分ないと思います。
(いわゆるカウンセリングは、その本来の意味においては、
 この要素をかなり欠いた/希薄にした 
 性質のものではあるのでしょう)

 ただ先の事件における洗脳は、ある個人の、
ひたすら私的な欲望に方向づけられた洗脳なのであり、
それだけに被洗脳者に対する共感など微塵もなく、
ひたすらに共感性を欠いた/残酷な仕打ちを行う選択肢がある。
故に効率や効果という観点だけで見れば、
とんでもなく効果的で効率的に!
ひたすら直線的に、行動や価値観の強制ができる。


 教育や療育が目指す洗脳は、
個人を社会に適応できる個人に成長させるための洗脳なのであり、
そこが大きく異なる
(効率/効果という観点で前者に劣る程度に
 ソフトなものになるのは、その意味では当然。
 あとはそれぞれの機関や自治体なりに、
 どの程度の成果とソフトさを選択するかなのでしょう)
とは思うのですが。

 ..でも国家とか軍とか..
組織が他の組織や個人に対して行う洗脳についてはー、
とりあえず実施者は
「誤った価値観を刷り込まれた不幸な個人を解放し、
 適切な価値観を入れ直す」
とか、本気で信じてやってるんだろうなぁ(笑)

  
 今も未来も..
私がそんな組織のひとっぽくなっちゃってないと、
いいなぁほんとに。

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