お泊まり会(14)

  • 2012/12/30(日) 23:15:21

 お泊まり会(14)を実施しました

 2008年..
一番最初に実施した際と同時期の敢行となりましたが..
もろに年末ですね。

 年末故の各種行動制限
(行きたい場所がやってなかったり)もあるのですが..
それなりに年末感漂う時期に、
児たちと出歩くのも、悪いものではないのでした。

 参加児は2名で、指導側も2名。
いずれも当方とは
付き合いの長い/行事経験値の高いケースなので、
まぁ基本的に気は楽です。

 初日には皆でクリップの大掃除も敢行したのですが、
そうして児たちの自然で効率的になった動きをみると..

 本当に成長したなぁ! と、感慨しきりなのでした。
単純に身体がデカくなった、という事情も込みで。


 今回は当方の引っ越ししたばかりの家での
宿泊活動実施に関する”テスト”という性格もあり、
それはそれなりに..有意義な実施となりました。

 私は..子どもの頃からこっち、
他人の家でそんなにいきなりくつろいだり!
絶対できなかったけどなぁ..と思いつつ。

 二日目は原鉄道模型博物館
http://www.hara-mrm.com/
に行きました。

 踏査を経て今回で二度目の訪問でしたが、
やっぱり..オタクは偉大だなぁと(笑)

 個人的には、直後のボランティア氏の意見:

「まぁ(館長さん)○ン○ンだよね」

 が、全てでした(笑)
多分行った大人の..
殆ど大部分が、同じ感想を抱くのだとは、思います。
殆どのひとがそれを口にはしないのだと思うけど。


 ひとりひとりに対し、
活動全体について”濃いぃ”
対人対応ができるのも、
今回のような少人数の実施では、
なかなかに興味深いことでした。

 例によって終了後に4-5時間くらいかけて
(この間、あまりに協力に集中して作業するので、
 時間感覚がなくなる。
 真面目な話、これほど集中して仕事をする時間って、
 この作業以外、無い)
それぞれの児について思いを馳せつつ報告書を書くと..

 その行為を通じて、
これまで自分の中で「把握できている」
と思っていた児たちの、新たな側面が見出せたりします。
 まぁこれについては、
以前のお泊まり会直後にも述べたこともあるように、
「彼らが成長/発達したからこそ」!
新たに見出せる要素という側面も、あるのだろうけど。
 その一方で、
これまでもとうに把握されていた彼らの行動特性について..
 自分の中で、これまでとは異なる理解や、
アプローチのあり方といったものが、
新規に見出されるということも、どうやらあるようで。

 それは個人的にも興味深い、
今回得られた知見だったのでした。


 最近の仕事を通じて、個人的に考え込んでいること:

 対応を開始したケースの多くは..
当方に関わることで”得るもの”があるから!来ている。
 中でも少なくないケースについて、
それは対応を開始したことで、
児或いは保護者(或いはその両方)に大きな変化..
 時に爆発的なといってもよい規模での、
発達/行動変容を見出せたことによって..
 その感覚と得たことと、
さらなる「その状態」への期待をもとにして、
当方との関わりを続けている(のだと、思うのです)。

 しかし大概の場合、なかなかその種の
大きな成長/発達を遂げる時期というものは、
長期間そのままの形で、維持されるものではない。

 考えてみれば、
それは当り前のことではあるのですけど。
 ひとが無期限に、無制限に成長し、
際限なく適応的に進歩「し続ける」という状態は、
本来の人のあり方からしても
不自然なのことだと、私は思うので。

 故に対応を開始し一定期間を経た後の、
児(その他)は..ある時期に、ある段階..
「当面の能力的伸長範囲の限界」といったものに、到達する。

 ..Plateau(プラトー)って言葉が、
それに該当するのでしょうか?

*プラトー:
 一時的な停滞状態のこと/
 何かを習得する際に進歩が一時的に止まって、
 横ばいの状態になること

 その状態にひとまず達したケースと
その保護者に対し、当方としてできることは何か?
どう関わるべきか?

 というのが、
ここしばらくの私の思考のテーマ(のひとつ)なのでした。

 まぁ..「対応を終了する」という選択が
そこで生じることも、実際そこそこあって。
私はそれについては、ある程度
(上記してきたような理解と、個人的思考の流れがあるので)
受け容れているのですけど。

 一方でその後..そうして対応が終了したあと、
比較的長期的な視点で状況を見た場合の、
児やその周囲の適応状況とその変化というものについて、
それなりの経験を積んだ上で、俯瞰してみると.. 

 まぁ..いろいろと難しいことを考えることは、
あるのでした。それはやっぱりね。


 上記問題意識について、
現状での私のスタンスというか、
当方としてすべきこと、方向性については..

(*途中にいろいろな個人的経験や知見が介在しているのですが、
 それは書くととんでもなく長いので、今回は置いておくとして)
 
(1)それまで実施してきた対応の方向性や、アプローチを、
 比較的大きく!変更/転回することで..
 児より当方や周囲の大人が想定していた以上の大きな変化、
 発達を引き出すことは..
 実のところ、私自身がこれまで漠然と想定していた以上に!
 あるのではなかろうか? 
 と、最近の私は、思っています。

 その辺りの思考は直近の更新:
 http://clipsince08.dtiblog.com/blog-entry-304.html
 とも関係あり

  まぁ..「アプローチを変える」ということは、
 ある程度「評価の方向性を変更する」こととも繋がります。
  児の異なる面を評価しそこを指導すれば、
 その面で伸びる/伸びる「ように見える」
 要素はある、という考え方も当然できるのですが。
  ここで私が述べている、
 「アプローチを変えることの恩恵」は..
 概ね「それ以上」の水準で起きるものである、
 とは述べておきます

(2)一方で..
 ひとの発達や適応というものを、
 可能な限り論理的に捉えようとする過程で、
 専門家として「正しい」と考え、
 なおかつそれなりの経験を得た上で..
 当方がこれまで実施してきたようなやりとりを、
 「そのままに続ける」ことの意義、というものも、
 やはりあるのだ、とも思っています。

  個人の発達における、
 ひとつのプラトー/高台 に到達した児に対して、
 この領域で基本的にできる対応は

・日々すべきことを明示し、
 それをきちんきちんとこなすことを、とにかく続けさせる
・日々細かに示される児の認識上の誤りや問題について、
 それが見出されたとき即座に微調整を繰り返し、
 これをひたすら続けていく

 の大きく2つの方向性だと思うのですが..

 長い期間関わり、
 児に対しこれを行ってきた事例については..
 (今回参加した2名も、大枠でこれに該当する)

  やはり、付け焼刃的な対応で、
 短期間のうちにあっさりと/急激に/強烈に変化した、
 或いはその直後の状態にある児(*及びその他)にはない、
 「強さ/強靭さ」というものを..
 見出すことができるのでした。

 私は、基本的には、
 その種の過程を受け精神面で到達し得た強靭さこそが、
 最終的にその後個人が遭遇する
 トラブルやプレッシャーに対処できる..

  有力な資質となるのだと思っています。


 …。

 何事も簡単で、明快で!
あっさりと努力の成果が示されることなのであれば!
それは私だって勿論嬉しいし、
そうであればよい!自分や当方が児に関わった成果というものが、
即座に、明確な形で示されればよいのに!!
と、日々思うのですけどねぇ..
(*ダイエットという作業が多くのひとにとって容易でない理由は、
 正にこれにある。
 直近の努力が即座の有効な変化に結び付かず、
 日々の継続的な努力しか基本的には意味をもたないため、
 短期的には..またその強度の面においても
 個人の動機づけにとって”強化的”なものとなりづらい)

 でもおそらくは..

 ひとは「楽して身に付けた/楽して得た」事柄については..

 それは当人にとって大切に扱われるものとはなりえず、
容易に失われてしまう..
 というようなリスクも、
同時に持ち合わせているのだと思います。

仲良すぎ

雨中移動

アドリブ / 緩急自在

  • 2012/12/21(金) 23:33:57

 先日、
とあるケースと対応している時:

指導場面で継続的に生じていたある不適応行動への対処として、
これまでも概ね一貫して、
自分なりにすべきことと理解し
平素から実施している対応を行ったのですが、
どうもそれではラチがあかない..

(そもそもその”ラチがあかない”という感覚を抱き、
 そうと判断することそれ自体が、
 おそらく今回述べている”アドリブのセンス”
 とも、大いに関係があるのだと思うけど。

 関連する内容として:
 http://clipsince08.dtiblog.com/blog-date-201205.html

 で、ラチがあかないと判断した後..
平素なら、或いは通常私が採用している論理からすれば
取らないような判断→対応を行ったら、
これが(その際には)意外に上手くいった!
と感じられたのでした。
(別室待機していた保護者の方が、
 これに同意するかは微妙だけど..
 その場面で生じた変化は、不適応行動の消去等の
 ”目覚ましい変化”ではなく、
 不適応行動の生じる頻度やテンポの変化、程度だったので)

 こういう、アドリブ(とりあえず”即興”)
の対処というものが上手く機能した場合の
実施者の感覚は、
…まぁ結構純粋に、
「嬉しい!」「やったぁ!」という感じなのですが(笑)

 それが成立する状況や
上手く機能しづらい状況を考えるのが、今回のお題。

 
 アドリブ/有効に機能するアドリブ成立の前提として..

私は児への或いは問題行動や不適応への対応方針が
「全て即興で場当たり的」
なものであってはならないとは、思います。

 これまでも繰り返し述べてきたように、
発達相談や指導には、その方針を貫く思考
(人間の行動を説明する理論や人間観、哲学)
がなければならない。
 それがなければ、指導者/実施者が
その対応の理由を保護者の方や他の指導者・大人に
正しく説明し、理解してもらえないから。

 ..いかに有効な指導であっても、
それが指導場面に限定してしか起こりえないものであれば、
その効果は本当に!僅かな/限定的なものに、なってしまう。
 ”有効な”指導を児の適応に生かそうと思えば、必然的に
その背景となる理論なり理屈を..
(なのだけど、実際にはしばしばこの際
「方法論だけ」が先行して学習されてしまう。
 教わる方からすれば「何故そうするのか?」よりも
「どうやってするのか?」に優先的に意欲が向いてしまう。
 なんというか..即効性というものを切実に求める以上、
 そうならざるを得ない。
 とりあえず私は、理屈を提示する側の人間は、
 その教わる側の感覚を..もっと!
 よく分かっていなければいけないのだよなぁと思う)
保護者をはじめとする大人、
児の生活場面に向き合う大人に対し
「教える」作業が、必要になる
(勿論そんなこたー昔っから分かってはいるのですけど、
 最近は特にそれを身にしみて感じるのです、はい)

 でも実際にはあるひとつの物事が
特定のひとつの原因や行動要因で説明されるほど、
単純である場合など、殆ど、ない!
(*人間はそこまで単純な存在ではないから)
 そうである以上、ある不適応行動の修正に際し、
いかに有効な理論を背景にした的確な指導を入れても、
それがそのまま運用されても、
「どうしても!上手く機能しない状況」は、ある。

 指導者がこれを理解していないと

(1)自分の指導方針や背景となる理論は正しい
(2)勿論自分は有能なので、自分の技術的な問題ではない
(3)→児が悪い。或いは保護者や、日常に対応する大人が悪い

 という思考に陥る。陥らざるを得ない。

 これは指導者の心理的負担を軽減するには結構な理屈だけど(笑)
これでは肝心の児の福祉が全然向上していかないし..

 だから..
支柱となるような強い理論は、
持っていてもよいのだけど!(*私は持つべきだと思う)
指導者はそれが有効に機能しない状況を予め把握し、
その限界をも理解していなければならない。

 その上でのアドリブ(即興性)なり「緩急自在」なのであり..

(*「緩急自在」は、
 厳密には「締めると緩めるのリズム」の在り方であり、
 一方で今回述べているのは
 限定的な対応或いは対応方針それ自体の変更なので、
 そういった意味で少々ニュアンスは異なるのですが..
 その”自在”という言葉のニュアンスは..
 かっこいいし(笑) 大事だと思うので。一応。)

 「適切にアドリブ」を入れるのは、存外難しい行為です。
(なお最初っから対応方針に定型を持たず、
 ただその場その場で適当に対処ことは、
 ここで述べるアドリブとは、
 本質的に異なる行為だと、私は思います)

 あるスタイルを有し、維持しつつ、
状況に応じて適切なだけの変化を認めること、
それこそアドリブであると思うので。

 私もこの仕事を始めた時点では
そんなことは全く、技術的にも経験量からも..
不可能だったと思います。
大概の場合、初心者が技術を学ぼうとすると

(1)全くのデタラメな、その場しのぎの対応
(2)何らかの方法論を学び、ある種の定型に至る
(3)その上で、はじめて適切なアドリブが可能になる

という流れで、
技術というものを習得しているのだと思うのですが、
私も正にそんな感じで。

 素人/初心者が、一度(2)の段階に至り、
指導や相談の”スタイル”を身につけ、
その有効性や”強さ”を実感できるようになると..
今度はそれに依存するようになる。
 依存をすれば、
そのスタイルへの帰依なり絶対視が生じ、
そのシステムに全ての事例の側を「合わせよう」
としてしまう。
 そのシステムの”強度(有効度や説得力)”が
高ければ高いほど、その依存心は強くなり..
結果として実施者が、
その方針以外の動きを選択できる場面が減少していく。

 その種の「好ましくない依存」を超えて、
より適切な対応..
適切なときに適切なだけ、
枠組みを解除できる仕組みに至るには、
どういった要素が必要になるのか?

 勿論上記したような
実施者当人の経験量や技術的向上も
大きな要因ではあるのですが..

 私はそれらを有効に機能させる”勘所”として、

(1)適切な距離感
(2)対応それ自体に「面白味」を見出すこと

 が重要なのかなと思っています。今は。

(1):
上述したスタイルなりシステムと、
実施者(の感覚・価値観)
が近ければ近いほど、対象やシステムへの依存は強くなる。
 またそれは、
実施者と対象(この場合は、児)との関係性についても同じ。
その他実施者と課題そのもの
(いつも用いる課題への自信とか過信)
との間の関係においても、同じことが言えると思います。
「対象への過剰な思い入れ」は、
概してアドリブを効かせづらくさせる要素だと、私は思います。

 実際、保護者でありつつ、その辺り..
「児との距離感を適切に保つ」行為というものは、
それ自体、基本的に難しいことなのだと私は思うのです。

 親として、自分の子どものことを
「的確に、距離を保って」
見る/評価する という行為自体が、
既に親としてある程度不自然であるともいえるので。
(親である以上、
 ”ある程度親バカ”くらいが普通だし、それでいいという観点)

 私はここ数日、上記したような「指導者の観点」で..
今自分が関与している事例の保護者の方の中で、
指導の観点で「子と適切な距離間を保っている」
と評価できるひとはどれくらい居るだろう?
 と考えていたのですが
(*あくまでも私の評価ですけど)
その数は決して多くは、ない。
 その数少ない事例についても..
その殆どが当の保護者の方自身として

「自分は(他の親に比べ)子どもに対し情が足りないのではないか?」
とか
「自分はひととして冷たいのではないか?」
とか自問していたりするような事例だったりして(笑)

 相談者/指導者のとしての私が(あくまで仕事的に)
アリだよなと思う距離感それ自体が、通常の親子関係と..
時に遊離するくらいのものだったりするのかもしれない
と思った次第です。

 でも..
その程度の距離感がなければ、
事物や対象に対し的確な判断と対応ができない!
ということは、仕事の中で常に実感できることであり..

 その発想が、或いは
「保護者がイコール指導者であってはならない」 
「指導は指導場面で指導者によって、行われなければならない」
理論の核になるのかもしれません。


(2):
今の、こんな世に生きる以上、
ひとが達成感や有効感などの前向きな感覚を、
日々の生活の中で継続的に得ることなど..
無理なのでは?とすら思い、
偶にかなり悲観的になる私なのですけど、

 その種の悲観や絶望に対処する最も有効なツールが、
笑い/笑うことである、という感覚は、
実はひとが精神の健全性を保つためには、
本当に重要だと思うのです。

 児の動きやかわいらしさ、
(大人の観点からすれば)矛盾した行為がもたらすギャップや
その面白み、課題そのものへの興味や理解を深めることなど..
それを単純に面白いと感じ、笑うことのできるセンス。

 児と関わり、
指導したり特定の行為を強制したりする(笑)
ある意味実に「笑えない」その過程を..
本当に心底クソ真面目に遂行してしまったら、
それこそ程なく指導者も保護者も兄弟も当人も..
まるっきり救われない/逃げ場のない 心理状態に至ってしまう。 

 発達障害は、
そのある側面を思い切り深刻に受け止めれば
相当に「笑えない」性質のものであるし、
それはときにひとに絶望すら、
感じさせるものなのかもしれない
(*私は日々、全っ然そういう観点で仕事をしていないけど)。

 しかしその悲しみや絶望を
真っ当に扱い、悲しみ、絶望したとしても、
その先に有効な対応手段は生じてこない。
問題に対する適切な理解や対応法の正しい判断は、
絶望や悲しみに浸りきり、
対象との間の適切な距離を失った状態では、生じ得ない
(なお
問題やその深刻度を把握できていないので、笑っていられる
 という状況は、ここでは例外とします)

 そこでひたすら「正しい」対応を、
教わった正しい方法論に基づいて実施してみても..
(上記したように)どこかで必ず、
その機能的限界にぶち当たる。
 その際に必要なのが、アドリブのセンスであり、
児当人や課題や「上手くいかない」
状況そのものから適切な距離を置くために必要なものが..

「それを笑い、楽しむ」
 個人のセンスだと、私は思うのです。

..まぁ、
 先天的に笑うことや楽しむことを
一切受け付けない類のひとも、居るにはいるだろうし、
(*そういえば私も一人だけ、
 限りなくそれに近い状態のひとを過去に知っていた)
そういうひとに、無理に笑いや面白味を伝道しようとまでは
私も思いませんけど..

 私やクリップは基本的にこの感覚を大事にしているし、
クリップを利用し、関わって頂けている方も
その大部分は..(*心の底からなのかどうかは別にして)
笑うこと、楽しむこと、
子どもとの関わりに面白味を見出すことによって..

 ここまで児たちに対応しえているのだと思います。


 私にとっては..
一番最初の経験。
もう20年近く前、大学2年の終わり頃、
友人と某障害児施設に見学に行って、
児たちと関わることを始めたその日から多分..

「仕事をして/子どもと関わって、
 一度も笑わなかった日など、ない」

のだと思います。

緩急自在