地震の後:個人的に思うこと

  • 2011/03/14(月) 23:19:38

 …結局地震の翌日。
3月12日(土)は、無理やり来させたシライ先生込みで、
結構な数のケースを相手に、概ね普通に仕事をこなしました。

 地震についての心配等も、
二日目にして当然皆無ではないものの、
”であればそれをいつまで心配し続ければよいのか?”等考えるに..

…どこかで
「なるようにしかならない」
「なってみたらそのとき」
 としか言いようのない、
そういう処理しかできない自分が、居ます。

 こういう私は..
割り切りがよ過ぎるというか、
やはり冷静というか冷酷だったり、
するのでしょうかね..


 とりあえず誰しも思うように、
「今自分にできることを、懸命にするしかない」
という思いも、あるのですけどね。

 
 そして仕事の後で帰宅して..
家がどうなっているのか、何気に心配していたのですが、

 …笑えるほど、何事も、なかった。
室内には相当に”倒れそうなもの”があるはずなのに
(しかもクリップのように何にでもつっかい棒を入れてるわけでもない)..
何一つ!落ちていないし倒れてすら、いない。

 その後も、世間ではいろいろと地震もあるのに、
(クリップで寝泊りした2日間、それなりに揺れを意識できたのに)
 …全然揺れない。
”ここは同じ日本なのか?”と不安になるほど。
S玉県T沢市は内陸/遠隔地過ぎる、のでしょうか。
 

 その後の二日間は、
11日と12日には職場でワンセグの小さい画面でしか見れなかった
TVでの報道をとにかくひたすら見て、見まくって、過ごしました。
そして(日本のひと皆が、今正にそうであるように)
いろいろなことを考えました。
(私の考えることなので、
 中には相当に不謹慎な思考も多々あるのですが..)


 今回の地震とその後の災害を評して
”日本最悪の日” という表現がありましたが..
 私を含め戦後生まれのひとにとっては正に、
2011年3月11日は、そういう日になるのだと思います。
その日以前と以後とで、
人生を明確に区切って認識することになるような人も..
或いは多いのかもしれません。

 実際に被災したひとに留まらず..
数百万人..ひょっとしたら数千万人ものひとの生き方を歪め、影響を与える。
それだけのインパクトのある事態だと、個人的には思っています。


 被災地の一つである、仙台。
昨年の4月に初めて訪れた後、
自分でも理解できないまま妙にその佇まいが気に入って、
その後お休みの度に何度となく
(その回数と頻度をここで述べたら、大概のヒトがちょっと引くくらい)
訪れ、歩き、親しんできた街でした。
一番最近は、この2月の末!(実際それから2週間も経っていない)
 そのときもなんだか..
大量の読書して本屋をブラついて、
お茶飲んで読書して何故かホテルでPC借りて仕事に没頭して、
そんな感じでしたけど(笑)



 私は、ここしばらくの間、
いろいろと「個人的にお勉強」をする中で、
発達障害という”状態”を受け容れる枠組みとしての、
現代の日本社会の在り方(というと大上段過ぎてアレですが)
に対し、概ね「明確な絶望」を、胸に抱いてきました。

 現状認識にしてそんな感じであり。
ましてや10年後、今私が関わる子どもたちが社会に出る頃の
日本の社会/経済のあり方の中で、
彼ら/彼女らがどれだけ粗雑に、いい加減に扱われ、
そのときに”上”に居る連中から
一方的に搾取され、いいように扱われることになるのか?
(その一方でまぁ..
”教育”という領域では、今後もそこそこ対応はマシになるかな?
という見通しも、あるにはあるのだけど。
でもそれがそのまま社会に波及するとは、到底思えない)

 それを思い、個人的にはここ数ヶ月、
かなり(精神の根底の部分では)気の滅入る日々を送っていたのでした。


 
 ただ、この震災によって..
その見通しが変わるのかもしれないな、
と思ったのです。


 自分の”少々の”利益や都合を、
他者への気遣いや礼儀作法の遵守に対し、
あまりに簡単に優先させてしまう、
といったひとの在り方が、多くのひとの意識の中で、ここまで少々..
「行き過ぎていた」という印象を、受けていたのです。
(それは個人としての人の中にも、なのですけど。
 大企業その他の”大きな組織”の、
 貪欲で、そしてあまりに人を軽視する姿勢なんぞには特に、でもある)


 …巨大な災害。
ひとの力では絶対にどうにもならない事象を目の当たりにして、
そうしてひとが、少しでも様々な事象に対し謙虚になれたら。

 巨大な災害と、それが今後自分達にもたらすことになる
”小さくない不都合”を、ここで甘んじて受けることができたら。

「自分よりも辛い」状況にある多くのひとを想うことで、
自分の今感じる少しばかりの不満を、
少しでも押し殺しせるようになれたら。

 自身を取り巻く事物に対し、
今よりも少しでも、真剣に向き合うことができれば。

 自分の欲求を一義的に考え、
それを自然なことと認識するのではなく!
身の回りのひとへの気遣いを自然に、増やしていくことができれば。


 …今、自分が社会的・経済的に
”イケてる”状態にあると思っている連中が、
それは
自分が有能だから/努力したから/
生まれながらに優れた存在だから/”良い”存在だから
といった感じに自惚れるのではなく、
 それは単に自分が..
「偶々恵まれているから」 
単に運がよかっただけ” なのだと思う事ができれば。

 そしてそう思えることで、
今、恵まれているといえない状態にあるひとたちを
能力がない/努力が足りない と簡単に処断することなく、
それは”単に運が悪いだけ”であると思えることができれば。


 そうすれば。


 …それで単純に経済状況が好転するかはともかくとして(笑)
今あるような、ごく一部の富めるものの、
そうでない者に対する一方的な搾取を是とする社会の在り方というものが、
或いは変わるのかもしれません。


 とりあえず、
真面目に働こうと思っているひとにきちんとした仕事があり、
とりあえずひととしての、
ひとらしい生き方(*定義が曖昧ですいません..)
を”望む”ことのできる社会。
 それに少しでも近づいてくれるとよいなと思います。
(*更に加えてあくまで個人的な希望を述べるなら..
 意図してチャラい仕事や手抜き仕事をするひと、
 職務上明確な失敗を犯しながらそれを認めないひと、
 自分の立場に応じた権利や利益を当然のものとして享受する一方で
 相応の責任を負わないひと共が..
 等しく罰を受ける社会 というのが、
 私の好みなのですが..)


 この災害と、そこで目にした様々なひとのあり方、
そこから自分たちが考えたこと、
実際に行ったことや決断した様々な事柄を機に、
(*この災害が..
 ”そのために必要だった”などとは、
 勿論決して、言うつもりはない)

 少しでもひとの中のそういう方向性、
前向きさや優しさ、誠実さやひたむきさ、
「ひととして生まれた以上、真っ当でありたい」
と思える部分が新たに機能し出して、
(*私は、とりあえず「昔はよかった」とか、
 そういう言い草を安易に使いたくないひとです)

 そんな在り方が少しでも
多くの人の中で、自然に、扱われていけるようになれば。

 誰もが
「自分のことだけを最優先する生き方」を
ごく普通に「かっこわるい」と見做せるようになれば。

 自分のすこしばかりの不都合が..
本当に”ちょっとばかりのこと”なのだと理解して、
それを他者に資するためにより適切に扱えるようになれば。


 そうしたら、
或いはこの国のあり方というものも、
変わることができるのかもしれないな、と。


 あー私がそのために、
積極的に何かをするつもりは、ないです(笑)
私は基本的に社会正義のヒトではないので。

 ただ療育という枠組みで
子どもたちに教えなければいけない本質的な事柄として
 「お前は一人で生きているのではない」
 「お前の認識は”絶対”では、ない」
 「常に他者は、居る/在る」
 といった内容はあるわけで、それはまぁ..
上記してきた事柄に”最終的には合流し得る”
内容なのかな、とは思っていますけど。



 今回 ”偶々幸運にも” 被災しなかった、
とりあえず今に至るまで直接的な害を受けなかった私たちは..

 少なくともそういった方向性を志向する
”義務”を感じて残りの人生を生きていても..
 いいと思うのですけどね。

この記事に対するコメント

この記事にコメントする

管理者にだけ表示を許可する