言語による

  • 2013/03/30(土) 23:36:10

 最近あったやりとり:

対象は小学校高学年で、
軽度な知的発達面の遅れを有する自閉症児。

 そのまま書くとバレバレなので、
ボカして(やや表現を変えて)書くと..


 彼に曰く

1.終業式で○年生が襲ってくる

という。

 いろいろ聞いてみると
(その最中も1.の話題を繰り返し話そうとするが、
 断固として無視し、2.の話を正確に述べるよう指示し続けた)

2.昨年末くらいに、その連中と児との間でやりとりがあり
 (先方は遊んだ程度に思っているようだが、
  彼としてはいじめられたと認識しているらしい)
 その際に
 「お前なんか□年生じゃなくて、1年生だ」
 「(4月になっても)△(*○+1)年生になれない

 といったことを言われたとのことで..

 彼はその「△年生になれない/進級できない」
と言われたことを強く意識して、
結果として、彼なりの論理を経て
「終業式で襲われる」
 という結論に達した、ようなのでした。


 で。そこまで質問と内容確認を繰り返した
*(ここまで10分くらいかかっている)後で

・私:終業式で○年生が襲ってくると、
   そこ(12月)で実際に、そう言われたわけ?
・児:いいえ。いわれていません。

・私:4月になって実際に進級できないというようなことは、
   これまでに一度でもあった?
   実際にそういうことって、あるの?
・児:いいえ。ありません。

・私:では君は4月になると進級できるの?
・児:はい。できます。

・私:では終業式で○年生は実際に襲ってくるわけ?
   君は本気でそう思っているわけ?
・彼:..いいえ。
 (*ここまでに15分くらい)


 この件はある種、彼ら自閉傾向を持つ児の
記憶や認識の在り方、
時にそれが被害的な誤解に発展する思考の在り方が
どのように形成されるのかということについて..
私にとって大いに勉強になるやりとりでした。

 当該児はクリップで対応する、
知的能力に遅れを有すると「見做される」児の中では、
かなりその持てる能力の高みに到達したと思われる児なのですが、
それでも、その種の非合理的な思考に達してしまうことが、ある。

 いや逆に、言語能力やその論理的思考の水準が
ある段階まで到達したからこそ、
そういった妙な誤解や非合理的な思考というものも、
はじめて生じるものなのかもしれません。

(そういった思考の/認識の 誤りが生じたとき、
 当該児が自閉傾向を有していることが、
 その思考を他者に容易に示したり
 そうすることで家族など周囲の他者から、
 適切なフィードバックを得たりする機会が
 相対的に少なくなることも、
 誤りを生じさせ、維持する機会を増やしているとも考えられます)

 その一方で、今回改めて感じたことは、
当該児の言語能力や論理的思考能力が
そうした高い水準にあるからこそ!
きちんとした言語的やりとりを行うことによって..
その問題を初めて、見出し、分解し、解析し、
修正することもできるのだ! ということでした。


 言語を有するに至ったヒトの思考に、
ある種の誤った理解や
それに基づく適応上の問題が生じたときに、
それに対処できるのは..

 基本的にはやはり、
言語の力なのだよなと思います。

言語をもって!
問題を認識し、掘り下げ、解析し、
当人の論理的誤りや齟齬を見出し、それを指摘し..
そういったやりとりを通じて、相手の問題を修正していく。

 そうしたとき、言語は..
観察等の「問題を見出す」ための道具であるに留まらず、
当の問題を現実に切り開き、
それに対し施術すら行う..ツールであるのだよな、と。


 ひとがひとと対応する状況において、
これに勝るだけの有効な道具は、現実には殆ど、ない。

 だからこそ、
言葉でひとと関わる仕事をしている以上、
私自身が言語的に..
かなり”優秀な”状態になくてはならないし、
それを常に維持しておかねばならないのだよな、
ということを、再確認したのでした。はい。

  
 ..そうして言語的に対応できた児がいる一方で、
言語発達的に問題のない水準にありながら、
明らかに誤った/不適応的な 認識や思考方式を持つに至り、
そのまま定着してしまうような..
「大人」というものが、
そこら中に存在するという事実は..
どう説明されるべきなんでしょうかね? 

(最近だとやっぱり、洗脳ネタの某女性芸人とか?)

 言語が思考や認識、価値観を在り方を規定し、
形成するものである以上、
それについて意識的に関わり、
長い時間をかけ、認識の誤りを..
とんでもなく多数、複雑に積み重ねていくことを行えば、
(或いは自身の中で勝手に、その種の
 思考上の誤りが積み重ねっていけば)
そうして出来あがった、
とんでもなく複雑な、しかも不適応的な思考というものを..

 外部から、他者からもたらされる言語をもってしても、
それに容易に解析し、対処することは、
困難になっていくという感じでしょうか..

 同時に言語的に対応される当人が、
どの程度”他者との共通認識”の枠組みを
有しているか/残っているか 
ということが重要なのかもしれません。

 私はその場合に他者とのやりとりを行える基盤として、
当人が「論理性」を有しているかということが
重要なのだと思います。

 いくら言語的なやりとりをこなすことができても、
それを他者とのやりとりに適用し、なおかつ、
(自身とは異なる)他者の意見を、
時に「正しい」と認識できるためには、
 当人の中に事物を「論理」的に扱う
システムが、機能していなければならない。

 そういった論理が、ない/正常に機能していない 
個人に対しては、おそらくは..

 言語による修正も、機能しないのでしょうね。

 今回取り上げた児などは、
論理的に物事を処理する機能がかなりきちんと働いていたことで、
問題に対処できた、と言うことができます。

言語イメージ

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